ブックマーク / rekiken.hateblo.jp (5)

  • 【福岡県うきは市】月岡古墳 - 歴研

    福岡県うきは市の月岡古墳 月岡古墳 月岡古墳は、今からおよそ1500年以上前の古墳時代中期(5世紀中頃)に、若宮古墳群の中で最初に造られた古墳です。全長は約80mで、墳丘の高さは前方部が6m、後円部が7m程度あり、前方部を西に、後円部を東に向けた前方後円墳です。昭和60年代に行われた発掘調査で、前方部の外側には三重の濠が巡っていたことなどが確認されています。 今では古墳の形は若干崩れ、後円部にあった竪穴式石室は完全に失われていますが、江戸時代後期(1805年・文化2年)に、多く副葬品がここから発見されています。現在、後円部墳丘上にある建物は、来は石室があった場所に建てられており。石室内に置かれていた凝灰岩質の長持形石棺が、発掘当時のまま大切に保存されています。 この石室や石棺の中からは、鉄製の甲・冑・刀・剣・鏃・馬具のほか、鏡・玉類など多種多様なものが出土し、中でも細やかな文様を刻んだ金

    【福岡県うきは市】月岡古墳 - 歴研
    VMAX7797
    VMAX7797 2020/12/04
  • 【東京都渋谷区】東郷神社 - 歴研

    東京都渋谷区鎮座の東郷神社 東郷平八郎命は弘化四年(1847年)薩摩藩士東郷吉右衛門の四子として鹿児島市加治屋町で生まれ昭和九年(1934年)五月三十日八十八歳で東京麹町三番町で薨去されました。 明治四年(1871年)二十四歳のとき英国留学七年間海軍士官としての修業をつまれました。以来、軍務に精励し同三十七、八年(1904、5年)の日露戦役に連合艦隊司令長官として艦隊を指揮し特に同三十八年五月二十七、八日の日海海戦で露国のバルチック艦隊を迎えて旗艦三笠にZ旗を掲げてこれを打ち破り世界海戦史上名高い完全勝利をなし遂げ国難を救ったことは有名であります。大正三年(1914年)東宮御学問所総裁として時の皇太子天皇教育の重大な責任を果たされ明治、大正、昭和と三朝に至誠一貫臣節を全うされました。その功績に対し元帥海軍大将従一位大勲功一級侯爵の栄誉が贈られ高い人格と陰影なきまごころの人として日だけで

    【東京都渋谷区】東郷神社 - 歴研
    VMAX7797
    VMAX7797 2020/11/04
  • 【東京都千代田区】東京大神宮 - 歴研

    東京都千代田区鎮座の東京大神宮 明治天皇のご裁断を仰ぎ、東京における伊勢神宮の遥拝殿として明治十三年二創建された当社は、最初日比谷の地に鎮座していたことから、世に日比谷大神宮と称されていました。関東大震災後の昭和三年に現在地に移ってからは、飯田橋大神宮と呼ばれ、戦後は社名を東京大神宮と改め今日に至っております。 「東京のお伊勢様」と称えられ親しまれているのは、伊勢両宮(内宮、外宮)のご祭神である天照大御神(日国民全ての祖神)と豊受大神(農業 諸産業の守護神)のご分霊を奉斎していることによります。 また、日で最初の神前結婚式を執り行ったことで有名な当社では、現在も神前において伝統的な結婚の儀式を守り伝えております。天地万物の生成化育つまり結びの働きを司る「造化の三神」が併せ祀られていることから、近年縁結びに御利益のある神社としても知られ良縁を願う人々のご参拝も年々多くなっています。 拝殿

    【東京都千代田区】東京大神宮 - 歴研
    VMAX7797
    VMAX7797 2020/10/28
  • 【九州四十九院薬師霊場】7番 相円寺 - 歴研

    福岡県苅田町の相円寺 内尾薬師(内尾の薬師如来坐像) この内尾山は、全山巌石で覆われ、前面は数十mの絶壁で、ここに南北に貫通する二つの大洞があり、上洞には3mに近い木造薬師如来坐像が安置されている。 この像は、僧行基の作とも伝えられ、国東の仏教文化の系統をひき、現存する中では最も北限のものであると考えられる。尊像は、衣服部に江戸時代に行われた大修理の痕跡をとどめるが、平安末期から鎌倉時代の作であると認められている。 内尾薬師は、歴代小笠原藩候の尊信と地域住民の崇敬を集め、現在では「内尾のお薬師さん」として親しまれている。 堂 寺名 相円寺 住所 福岡県京都郡苅田町 馬場268 TEL 093-436-2110 尊 創建年 駐車場 備考

    【九州四十九院薬師霊場】7番 相円寺 - 歴研
    VMAX7797
    VMAX7797 2020/07/13
  • 【佐賀県佐賀市】龍造寺八幡宮 - 歴研

    佐賀県佐賀市鎮座の龍造寺八幡宮 当八幡宮は文治三年(1187)龍造寺家の始祖なる南次郎季家が建立し、龍造寺八幡宮と称した。季家は平家追討の功によって源頼朝より佐賀地方の地頭職に任ぜられ、居城内に鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の分霊を勧請して祀り歴代手厚く崇拝し祭祀を営んだ。 降って慶長十二年(1607)佐賀初代藩主勝茂は佐嘉城築城に際しこれを白山町に遷座し、宏壮華麗な社殿を造営して寄進した。慶長九年には藩祖直茂の室北の方藤女が肥前鳥居を奉納して聖上萬歳、国家安穏、武家一門の弥栄を祈念している。(現在佐賀市指定重要文化財)、かくて歴代の藩主は佐賀開府の神、佐嘉城の鎮護の神として尊崇の念篤く、鍋島家の産土神として事あるごとに報告祭又は祈願祭を営み、且つ一般の参詣も許した。 廃藩置県後は氏子において一切を御奉仕することになった。 現在、安産、初宮詣り、厄除、交通安全、商売繫盛、家内安全の神として九州一円広く

    【佐賀県佐賀市】龍造寺八幡宮 - 歴研
    VMAX7797
    VMAX7797 2020/01/13
  • 1