文久の改革(ぶんきゅうのかいかく)は、文久2年(1862年)に江戸幕府で行われた一連の人事・職制・諸制度の改革を指す。嘉永7年(1854年)の開国以来の混沌とした政治情勢を受けて、半ば非常時の体制へ移行したものであるが、その主導者は幕府自身(幕閣)ではなく、薩摩藩主の父・島津久光および朝廷の公武合体派公卿らの主導で出された勅使による圧力の下、やむを得ず改革を行ったものである。 幕政改革は、鎖国体制から開国への移行に伴う尊王攘夷運動の激化、将軍継嗣問題を巡る一橋派と南紀派の対立などの政治的混乱の中で、薩摩藩主・島津斉彬や越前藩主・松平慶永(春嶽)ら、開明的な大名らの間ではつとに必要性を叫ばれていた。しかし、斉彬の急死および大老・井伊直弼による安政の大獄における改革派の弾圧などにより頓挫していた。 斉彬の死後、藩主となった実子の島津茂久を補佐する国父の立場となった島津久光は、兄・斉彬の遺志を継