そろそろ文学のことを書かなければならない。しかし、いま日本で使われている「現代文学」という言葉の「現代」は、“現代音楽”“現代美術”という概念を指すときの“現代”ではなく、たんに「いま」を意味する「現代」でしかない。 いま書かれたり作られたりするもののすべてが“現代”でないことは言うまでもなく、韓流ドラマなんかは時代でいったら「現代」の作品だが、手法も内容も思いっきり古くさい。しかし韓流ドラマの監督のインタビューをこの前テレビで見たら、彼には「古くさい」という意識がどうもないみたいなのだ。彼は演出やカメラの手法として「これこそがすばらしいドラマを作る手法である」と信じているみたいだし、ドラマの内容も「不滅のテーマであるがゆえに現代的だ」と思っているみたいだった(「不滅」というのはいつも怪しい)。 古くささというのは、作り手がその古くささを自覚していないことが最大の原因になる。しかし韓流
固有性を愛するということについて*1。「彼のどこが好きなの?」と問われた女の子がいるとする。女の子はしばらく思案したのち、あれやこれやと彼の属性を列挙した挙句、「その全部を愛してる。でもその全部がなくても愛してる」と発言したと仮定する。(A)「その全部を愛してる」と、(B)「でもその全部がなくても愛してる」は、一見互いに排他的であるように見えるけれど、よくあるノロケ話として僕らはこれを日常的に理解できるし、実際そうしてもいる。ではなぜ排他的ではない、といいうるのか。もし、立川健二のいうように、“「愛する」という行為は、固有性(固有名)を愛することである”とするなら、これを敷衍して女の子のセリフに当てはめると、それは二つの「固有性」、(A)「固有性≒特徴的な属性」、(B)「固有性=特徴的な属性に還元されない単一性・特異性」を意味していると理解できる。混同しやすいので、ここでは「固有性」という
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く