明治元年10月28日(1868年)、新潟府知事に就任した。西園寺は軍人を志し、フランス留学を望んでいた為この職は不本意であった[11]。翌明治2年、東京に戻った西園寺は木戸孝允らのすすめで開成学校に入り[8]、フランス語の勉強を始めた[12]。また大村益次郎の薦めで法制についても勉強するようになった[13]。東京では前原一誠と同じ宿で長く一緒に過ごし、次第に武士の社会に馴染むと公家風の名を嫌って「望一郎」(仇討譚で知られる剣客田宮坊太郎に由来)という名を用いるようになった。若き日の西園寺が大小を差した侍姿で颯爽と立つ勇ましい写真も残されている。 9月には許可無く京都に戻り、一週間の謹慎処分を受けた[14]。この時に家塾として『立命館』を創始している[14]。翌明治3年1月末、政府の許可を得て長崎に向かった。また、公卿の中で初めて散髪・洋装で宮中に参内し、大原重徳に「外国の服装をするのは外国