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  • 前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#2-1 写像と命題 - 知識の積み木 - 楽天ブログ(Blog)

    前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#2-1 写像と命題 [ 分析哲学 ]     思考の可能性を見出すために、事実を対象に分解し、それらを再結合して事態を構成する必要があることをみた。しかし、現実の対象を組み合わせて新たな事実を作ったのでは、それは現実性であって可能性ではない。そのため、Wは先の存在論的な議論を離れ、2.1からは、どのように我々が事実や対象と関係をもっているかという議論、つまり、事実の写像、思考、言語などの議論に移る。 写像理論(picture theory) 現実性である事実から可能性を見出すには、事実の代替手段が必要となる。それが現実の像(独Bild, 英picture, image)である。我々は、事実を写像することによって事実の(観念的な)模型として像を作る(そして、この事実の模型としての像もまたひとつの事実である)。そして、何かを理解するということは

    YOW
    YOW 2009/01/15
    >「思考は命題において知覚可能な形で表される」「命題とは現実の像である」端的に命題=像と捉えて問題ない。しかし名の論理形式だけでは名の指示対象に到達できそうにない/論理的構文論<とラッセルのパラドクス
  • 後期ウィトゲンシュタイン「哲学探究」#3 規則に従う - 知識の積み木 - 楽天ブログ(Blog)

    クリプキ批判と「規則に従う」の発見 しかしクリプキの主張をみてみると、§201の後半をまるまる無視していることが分かる。それを見てみるとクリプキが言及するような懐疑論的パラドックスや懐疑論的解決など主張しておらず、逆にウィトゲンシュタインは明確にそのパラドックスは「誤解」を基としていると言い、その考えを排除している。 ・しかし「此処には、一致も不一致も存在しない」と言うとすれば、そこには、ある誤解がある。このことは、我々はその思考過程において解釈に次ぐ解釈をしていると言うことの中に、すでに示されている。このことを通して我々が示すことは、こうである:規則のある把握があるが、それは、規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用において我々が「規則に従う」といい「規則に反する」と言うことの中に現れるものである。(§201) このようにクリプキが言うパラドックスやそれの解決方などはウィトゲ

    YOW
    YOW 2007/04/06
    >「とある規則のとある把握」それは規則の解釈ではなく、規則に従うor反すると言う中で現れる:「規則に従う」自体が正当化抜きで存在←ある普遍的な規則が人間を導くのでなく、言語ゲームの原規則(メタ規則)が存在
  • 後期ウィトゲンシュタイン「哲学探究」#2 クリプキのウィトゲンシュタイン - 知識の積み木 - 楽天ブログ(Blog)

    ウィトゲンシュタインのパラドックス (クリプキによる解釈)  懐疑論的問題(Sceptical problem) ウィトゲンシュタインは(§185)においてある奇妙な数列の問題を提示する。ある教師が2,4,6,8…という数列を教えていた。しかしある生徒が100を超えてから、98,100,104,108…という法則と異なった数列を言い出した。この例が示すことは、この生徒に彼の誤りを言葉で説明できないということである。生徒にとっては上記の数列が「自然」であり「規則的」なのである。我々が98,100,102,104…という数列を自然であると感じるのと同じように生徒も98,100,104,108…という数列が「自然」なのであり、その状態を自然に感じ何の疑問も抱いていない。また、教師は自分に対して生徒が間違っていること を説明できない。我々は100+2=102であるという確信をもつが、その確

    YOW
    YOW 2007/04/06
    「<法>規範の承認のされ方」に関連>ex.「意味を理解してれば→言葉を正しく使う」対偶「言葉を誤って使う→意味理解していず」に転倒、審査される:この懐疑論的問題について
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