●何かと「戦って(闘って)いる」と思っている時点で既に負けているんじゃないだろうか。このような形で今ある(決して敵の消えることのない)世界のなかで、どのように、戦うことを強いる磁力とは無縁に、生きることの可能な隙間をみつけ、あるいはそれを積極的に作り出すことが出来るのか、ということが問題なのではないか。つまり、敵を倒そうとしたり否定したりするのではなく、敵と同じ世界(同じ構造)のなかで、敵とはまったく別の原理によって振る舞うこと(それを可能にすること)こそが、それだけが、(積極的な創造としての)闘いなのではないか。そのための原理や、技術や配慮や機転が必要なのだ。 それは、積極的な何かを組み立て、作り上げ、自身の存在や生を支えるためのもので、何かを攻撃したり否定したり斬ったりするための(外向きの)武器ではない。「戦うこと」をモチベーションとしてはいけないのだ。 敵と和解せよ、ということではな
雪は朝の時点でほとんどおしまいの感じだった。でも道は乾いておらずかなりすべりやすそうなので歩くのに注意を要する感じで、やや速度を落として用心深く歩いた。桜の黒々とした幹や枝には、まだ新鮮な白い雪の固まりが木の形状を上面から律儀になぞるようにほぼ同じ厚みで積もっていて、黒い木の枝に支えられた雪の白さの、まるで中空に浮き掘られたようなかたちは、まさに障壁画とかに描かれるあの感じそっくりだった。木々の黒さと雪の白さと朝日を反射する濡れた路面と水滴の滴りの感じがなんともキレイで如何にもありがちで凡庸で、きれいだという事はなんとつまらないことだろうかと思った。つまらなければつまらないほどキレイだ。 水墨画での雪は墨の描き残しで表現されるので、雪の雪らしい感じは枝の黒さとか空間のグレーが外側から厳しくふくよかにせめぎ合う事でかたちづくられる。その内と外せめぎ合いの感じというのは、絵画特有の感じだとも思
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