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2010年1月17日のブックマーク (1件)

  • 秋元喬知 - Wikipedia

    秋元 喬知(あきもと たかとも)は、江戸時代前期から中期の大名。甲斐谷村藩主、武蔵川越藩主。老中を元禄12年(1699年)から正徳4年(1714年)まで務めた。館林藩秋元家4代。実父の戸田忠昌、実弟の戸田忠真と共に老中を務めた。 下総佐倉藩主戸田忠昌の長男[3]。男子のなかった外祖父の谷村藩主秋元富朝の養子となる。奏者番から寺社奉行、若年寄、老中を歴任する。5代将軍・徳川綱吉、6代将軍・家宣の2代にわたって仕えた。土木行政に手腕を発揮し、江戸城三の丸建設や護国寺、寛永寺中堂、厳有院仏殿などの造営奉行、元禄大地震の復興総奉行を担当した。また好学の名君であり、将軍綱吉に進講することもあった。 綱吉亡き後に将軍になった家宣の側近である新井白石・間部詮房の正徳の治を支持した数少ない閣老であり、老中退任後も白石・詮房派として閣内に隠然たる影響力を残した。宝永4年(1707年)に八瀬童子と天台座主・公

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