朝野新聞(ちょうやしんぶん)は、1874年(明治7年)9月24日から1893年(明治26年)11月19日まで東京で発行された、民権派の政論新聞。前期には成島柳北社長と末広鉄腸主筆が論陣を張った。 1872年(明治5年)に旧松江藩と旧明石藩が創刊した、『公文通誌』という、主に政府の布告を紹介する小規模な新聞があった。発行人はそれぞれの旧藩士鵜飼渚と乙部鼎で、乙部が社主を勤めた。 1874年秋、乙部は成島柳北を社長兼主筆に迎え、名を『朝野新聞』と変え、政論新聞に脱皮した。経営は乙部、編集は成島である。『朝野』とは、『1. 朝廷と民間、2. 全国。世間。天下』である(広辞苑)。成島家は江戸幕府の正史編纂事業にあたってきた家柄であり、柳北の祖父・成島司直の師である林述斎も公式史書『朝野旧聞裒藁』を編纂しているため、それを意識したものかもしれない。 先発紙東京曙新聞にいた鉄腸こと末広重恭が、1875