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死に関するadgtのブックマーク (12)

  • スナフキンと死と別れについて - 凹レンズログ

    ぼくはね。世の中の色んな事を忘れて生きていけたら どんなにいいことだろうと思っていたんだ。 あんまり誰かを崇拝するということは、自分の自由を失うことなんだ ものは 自分のものにしたくなったとたんに あらゆる面倒が ふりかかってくるものさ 運んだり 番をしたり いつも優しく愛想よくなんてやってられないよ 理由は簡単 時間がないんだ 何か 試してみようって時には どうしたって 危険が 伴うんだ 明日も きのうも 遠く離れている 昔から風の様に生きていけたらと思っていました。スナフキンのように、執着なく、何者にも囚われず、自由で、孤独と親しくなりたいと憧れていました。「どういう考え方をすれば、それを実現できるのだろうか?」と当時は考えていて、思春期や青年期に頭の中でぐるぐると思索をしたり、散歩しながら考えたり、大学生になってからは遠出をしてみたりもしましたが、答えはでぬままでした。 私は、自分の

    スナフキンと死と別れについて - 凹レンズログ
  • 岸本英夫『死を見つめる心』がスゴイ - 凹レンズログ

    オカルトチックにならず、宗教的・妄信的にならず、日常的な感覚でどうやって『死』を理解できるのか?ということが、ずっと疑問でした。スタンフォード大学客員教授であり宗教学が専門であった岸英夫は、ガンにより余命半年の可能性を告げられ「死」を見つめていきます。最も興味深いのは宗教学者であった著者が、「死後の世界」の存在を否定した上で死の淵に立つ選択をしたということです。エントリーでは、彼の『死を見つめる心』を紹介します。 岸英夫 - Wikipedia 死とは何か? 死は、突然にやってくる。思いがけない時にやってくる。いや、むしろ、死は、突然にしかやって来ないといってもよい。いつ来ても、その当事者は、突然に来たとしか感じないのである。生きることに安心しきっている心には、死に対する用意が、何もできていないからである。 1954年アメリカ滞在中に岸英夫は、首の左、あごの下にできたしこりを検査し

    岸本英夫『死を見つめる心』がスゴイ - 凹レンズログ
  • 僕は みにくい バケモノ です - 凹レンズログ

    世の中にはタブーがあります。 タブー (taboo) とは、もともとは未開社会や古代の社会で観察された、何をしてはならない、何をすべきであるという決まり事で、個人や共同体における行動のありようを規制する広義の文化的規範である。ポリネシア語tabuが語源。18世紀末にジェームズ・クックが旅行記において、ポリネシアの習俗を紹介する際に用いたことから西洋社会に伝わり、その後世界各地に同様の文化があることから広まった。禁忌という訳語も用いられる。 タブー - Wikipedia タブーは多義的な言葉ですが、今回のエントリーでは「現代社会におけるタブー」、特に「口に出してはいけないこと」という意味で用います。 現代社会におけるタブー 現代における「タブー」は、意味の拡張により、来の使用法とはかけ離れた用法となっていることもしばしばある。身近な例としては、言霊信仰がある。これは死など、縁起が悪いとさ

    僕は みにくい バケモノ です - 凹レンズログ
  • 「心臓がとまるかもしれない」ということ - 凹レンズログ

    以前から、胸に痛みがはしることがあった。それは、頻繁ではなかったし、気にしすぎだろうと思って放っておいた。3日まえから、階段をのぼったり、手慰みをしたり、走ったりすると、胸が締めつけられるようになり、2日まえには長い時間、胸の圧迫感や重い感覚があり、首から上に血が上っているようだった。 以前、健康診断で高血圧が指摘されていたし、まさか虚血性心疾患じゃないよね・・・。と不安になってしまいました。 ‹•ŒŒ�«�SŽ¾Š³�i‚«‚傯‚‚¹‚¢‚µ‚ñ‚µ‚Á‚©‚ñ�j 【狭心症の症状】3分でわかる狭心症の症状|知るべき6つのポイント まぁ、病院には明日行って相談する予定なので、そこは良いのです。 頭の中で「まぁ、大丈夫だろう」と繰り返し自分に言い聞かせるんですが、そうすればするほど「もし、心臓がとまったら・・・」と、馬鹿馬鹿しいとは思うけれど拭いきれない心配が影を落としていくのです・

    「心臓がとまるかもしれない」ということ - 凹レンズログ
    adgt
    adgt 2012/05/28
    >id:Zarathustra1951-1967さん、仰るとおり心臓ばかりが問題とも限らないですね。コメントありがとうございます。
  • いとなみはすべて「死」のために - 凹レンズログ

    どんな死に方だって構わない。死んだら、それで終り。天国も地獄もない。それでいいじゃないか?自分がこの世界に存在していることは、それこそ天文学的な確率の上で成り立っているんだから、一瞬でも生命がやどり呼吸をできただけで十分。神なんて必要ない。人生は無価値で、同じように死も無価値だ。どうせ死ぬんだし、ぎゃーぎゃー言っても変わらない。 これが高校時代に死について悶々悶々とドライに捉えている振りをして、怯えて、怖いのにやめられずに大抵行き着くループの終着点でした。 それはもう小学校の頃から、夜に布団の中で死後の世界を想像しはじめると止められなくなって、「死って何だよ?」「無ってどういうこと?」「自分が消えてしまうって???」・・・と怖くなって、家族の顔を見に起きてちょっと安心するってな。死についての「あるある」を体験してきました。 歳をとってもうすぐ30歳の僕は、もうそんなに斜に構えたフリをして死

    いとなみはすべて「死」のために - 凹レンズログ
  • 「アイシテル」の言葉の意味を教えて - 凹レンズログ

    ちまたにありふれているのに、その実感を掴むことが難しい言葉。その最たるものが「愛」だといって良い。これまでの自分のスタンスは、そんな曖昧で無責任で、自己陶酔を感じる言葉はぜっっったいに使いたくない、ドライに淡々と生きていきたい、・・・と思ってました。けれど、ソロソロ逃げずに考えてみようと思ったのです。 「愛」の実態を知らないということ 「愛」「愛してる」「愛おしい」・・・ドラマや映画小説、世の中には愛という『ことば』が溢れています。一週間テレビをつけっぱなしにしておけば、必ず「愛」という名の言葉を耳にすることでしょう。 けれど、もし「愛とは何か?」という質問をされたとして、僕らは答えられる回答を持っているでしょうか?「愛」という名の言葉の意味を僕らはほとんどわかっていない。これだけありふれた名前なのに、その名前の主(あるじ)である実態の手触りはない。こんなに名と主にギャップのある組み合わ

    「アイシテル」の言葉の意味を教えて - 凹レンズログ
  • どんな悲劇に埋もれた場所にでも 幸せの種はかならず植わっている - 凹レンズログ

    母の知人の息子さんが亡くなった。バイクで事故に遭ったそうだ。 僕は、母の知人も、その息子さんも知らない。 ほんの30分あまり前に顔を合わせた自分の家族が亡くなってしまう。 もう永遠に顔を合わすことが叶わない、その手に触れることができない。 「いるかな?」と思って、部屋に入ってもそこに彼がいることはもうない。 聞けば一瞬でわかる声も、もう聞けない。 声を想像することはできる。けれど、イメージに響く声が当に彼の声と一致してるかなんて確証はない。いちど疑ってしまうと、自分の中でその人の像が薄らいでいるのではないかと不安になって、もがいても掴める確たるものは自分の中に見つけられない。 髪の感触 肌に触れたときの温度 目の表情 背中の温かさとセーターの感触 こちらに気がついたときの顔 こういった自分の家族や、彼女、友人の実感を想像することは、今もできる。 けれど、それらは失われる。必ず。それだけは

    どんな悲劇に埋もれた場所にでも 幸せの種はかならず植わっている - 凹レンズログ
  • 『死の起源』に再び触れて - 凹レンズログ

    「人間はなぜ生まれ、生きてゆくのか」、という人間にとって初源的な問いに答えてくれるものは、あるのだろうか。それは、生き遂げた終焉としての「死」以外にはおそらくないだろう。だから、いまはここにないからといって忘れてはならないのが「死」なのである。死ほど私たちの今、現在を息吹かせてくれるものはないはずである。 年末に実家の棚を整理していると、懐かしい一冊のを見つけた。このを初めて手に取ったのは、たしか18歳の高校卒業が間近の頃だったと記憶している。 したり顔で斜に構えて、言葉だけの苦悩を抱えた気になっていた当時、田沼靖一の「死の起源 遺伝子からの問いかけ」と出会った。ビジュアル系バンドが売れたり自殺掲示板が問題になったりしていた時期だったと思うけれど、当時から陶酔感プンプンのカルト的な死は自分にはピンとこなかった。 死の起源 遺伝子からの問いかけ (朝日選書)posted with ヨメ

    『死の起源』に再び触れて - 凹レンズログ
  • 苦しみと喜びの両方を食べ続けるための音楽 - 凹レンズログ

    最近、思春期・青年期以来、死や人生について考えてみようとする時間が増えた。その中で思うことは、良いことばかり考えることや、悪いことばかり考えることは、どちらも生々しくない。物事には必ず良いことの芽も、悪いことの芽もついている。その片方しか見えなくなることが問題で、「葛藤」とか「モヤモヤ」をどうやって大切にするかということが生活するための知恵であるように思う。 ひとつの場所から定点観測するだけでは、決まった、固定化された姿しか見えなくなる。善し悪し両方、2つの顔を“さがす”ことで、僕らは自分の位置を変えるし、ものごとの予想もしなかった真実に触れることができる。そして、自分でも知らなかった自分の一面も知ることができる。 今僕が考える、命を燃やすための方法は、悪いことも良いことも両方味わおうと思ってさらりと行動し続けること。嫌なことや避けていたことに挑戦して、喜びをその中で探す。 歌は姿勢を、自

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  • 凹レンズ(旧館)

    adgt 2008年11月25日 〜 2012年12月9日。ブログを引っ越しました。 http://www.ourenzu.com

    adgt
    adgt 2011/04/08
  • 「さよならもいわずに」が見せつけたマンガの可能性 - 凹レンズログ

    宝島社が発行するマンガのランキング「このマンガがすごい!」。今回は、2010年のマンガ作品の中で第3位とされた「さよならもいわずに」を取り上げます。今回は、内容的なことには触れません。ただ、この1冊によって私は「主観的な体験を伝達する手段」として、マンガがいかに可能性を秘めたツールであるかを思い知らされました。 さよならもいわずに (ビームコミックス)posted at 2010.12.17上野 顕太郎 エンターブレイン Amazon.co.jp で詳細を見る さよならもいわずに 上野顕太郎 このマンガについて、夏目房之介は以下のようにレビューしています。 ウツだった奥さんが突然亡くなって、娘と二人になった漫画家の、圧倒的な悲しみと喪失感を訥々と語った異色作である。考えられた演出、緻密に描かれた絵、 画像の配置、選ばれたセリフや内語・・・・・、重苦しく逃げ場のない主題から一切逃げないとい

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  • ネットを歩き、死をポケットに入れて - 凹レンズログ

    僕達は、昔と比べて死と距離が離れてしまった。 それは、現代人が死について知らないとか昔の人は知っていたとか、そういう話ではない。死について当に知るためには死ぬしかないのだから、ある意味、この世に存在している人は誰も死について知らない。ただ、僕達と死との“関わり方”が、以前とは変わってしまったのは確かだ。それが新たな死との向き合い方への模索なのか、遠く離れてしまっただけなのかは分からない。 今日は、ネットで読むことのできる、「実際の死」についてのリンクをいくつか紹介します。けれども、何か書き残しておきたい気持ちに駆られたので、少し前置きにお付き合いください。 死が隠れてしまった今 仏壇がある世帯はどのくらい減ったのだろう?日々の中で、亡くなった家族の遺影を見て、お香がたかれ、お鉢、花が供えられ、死者とコミュニケーションを図る家庭がどれくらいあるのだろうか?墓参りをする回数は変わったのだろう

    ネットを歩き、死をポケットに入れて - 凹レンズログ
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