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『詩の原理』に関するainoutanoehonのブックマーク (4)

  • 萩原朔太郎『詩の原理』(四)自由詩、日本語の「調べ」

    萩原朔太郎の詩論『詩の原理』を通して、文学、散文、詩、日の詩歌を見つめ直しています。今回は、「第十三章 日詩壇の現状 1、2」での自由詩についての考察を取り上げます。冒頭に私が教えられたこと、感じ考えたことを記し、その後に朔太郎の言葉の原文を区分して引用します。 初めに朔太郎は、日語による長篇韻文としての自由詩が生まれた軌跡を振り返ります。 「新体詩」からの模索を通して「七五調が破格を生み、単調のものが複雑になり、そして最後に、今日見る如き自由詩に到達した。」、そして次のように言い切ります。 「日の詩の有り得べき形式は、この三つの者――和歌と、俳句と、自由詩と――の外にない。」。 そのうえで朔太郎は伝統詩歌でない、若者たちが求めた新しい形式である自由詩そのものの考察を進めます。 まず、「形式上の区別からみて、自由詩は明らかに散文に属しているのだ。」と大きな把握をしたうえで焦点を絞り

    萩原朔太郎『詩の原理』(四)自由詩、日本語の「調べ」
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。萩原朔太郎『詩の原理』(四)自由詩、日本語の「調べ」。
  • 萩原朔太郎『詩の原理』(三)散文律の自由詩に行く

    萩原朔太郎の詩論『詩の原理』を通して、文学、散文、詩、日の詩歌を見つめ直しています。今回は、「第十二章 日詩歌の特色」についての続きです。冒頭に私が教えられたこと、感じ考えたことを記し、その後に朔太郎の言葉の原文を区分して引用します。 初めに朔太郎は、詩の言葉としての日語について、「日語には平仄もなくアクセントもない」から、その「音律的骨骼は、語の音数を組み合す外にない」と、日語を話し日の詩を読む人の基になっている感覚をとらえます。 そして、詩を書こうとするときいちばん自然にでてくるリズム、「五七調や七五調の定形律」は、これに基づいていると教えてくれます。 そのうえで、「語数律は、韻文として最も単調のもの」、「同韻の反復にすぎない」から、「少しく長篇にわたるものは、到底倦怠して聴くに堪えない。」とその弱点を見つめます。 私も詩作で、五七調を続けすぎ場合に、「交通標語」のような

    萩原朔太郎『詩の原理』(三)散文律の自由詩に行く
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。萩原朔太郎『詩の原理』(三)散文律の自由詩に行く。
  • 萩原朔太郎『詩の原理』(二)有機的な内部律(調べ)

    萩原朔太郎の詩論『詩の原理』を通して、文学、散文、詩、日の詩歌を見つめ直しています。今回は、「第十二章 日詩歌の特色」での、詩の言葉の美しさについての深い考察を取り上げます。 冒頭に私が教えられたこと、感じ考えたことを記し、その後に朔太郎の言葉の原文を区分して引用します。 初めに朔太郎は、西洋の詩がギリシャの叙事詩から始まったのと異なり、「日の詩の歴史は、古事記、日書紀等に現われた抒情詩《リリック》から出ている」と見て、「上古に発生した詩は、すべて無韻素朴の自由詩である。」と提起します。 その歴史的事実についての学識をわたしは持ちませんが、記紀歌謡には確かに、非定型な無韻の、美しい詩があります。日の詩の初めにそのような言葉があることを私は嬉しく感じます。(特に好きな詩を、別途「愛しい詩歌」に咲かせます)。 朔太郎は、日の詩がその後、支那の影響を受け「万葉集に見る七五音の定形律(

    萩原朔太郎『詩の原理』(二)有機的な内部律(調べ)
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。萩原朔太郎『詩の原理』(二)有機的な内部律(調べ)。
  • 萩原朔太郎『詩の原理』(一)純詩、抒情詩の外になし 

    萩原朔太郎が試行錯誤のすえにとりまとめた『詩の原理』は、彼の詩論の集大成であるとともに、文学、散文、詩、日の詩歌を考え味わううえで質的なことを教えてくれます。数回にわたり、その要旨を読み返しながら、私が教えられたこと、考えたことを記します。各回とも、冒頭に私の言葉を記し、その後に朔太郎の言葉の原文を区分して引用します。 初回は、「第三章描写と情象」、「第十一章 詩に於ける逆説精神 2」にある、詩とは何か、について言葉です。 初めに朔太郎は、芸術の表現様式について、美術や小説は「描写」(知性の意味での表現)であり、音楽や詩歌は「情象」(感情の意味を語ろうとする表現)であると、その違いを明確にします。小説は知性による構築物で描写する言葉を積み上げない限りできないと私も考えます。 一方、詩は、「たとい外界の風物を書く時でも、やはり主観の気分に訴え、感情の意味として「情象」するのだ。」、そして

    萩原朔太郎『詩の原理』(一)純詩、抒情詩の外になし 
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。萩原朔太郎『詩の原理』(一)純詩、抒情詩の外になし。
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