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紫式部に関するainoutanoehonのブックマーク (9)

  • 紫式部の憂いと信仰。紫式部日記。

    前回に続き『紫式部日記』を通して『源氏物語』の作者の千年前の思いのうち、私の心を波立たせてくれた彼女の吐息にふれます。 はじめの引用箇所は、この日記のなかで、彼女が自分自身を省みた思いを書き記されているところです。紫式部の日記を読むと、宮廷でのできごとを書く場合にでも、最後には自分自身にひきよせて考える、とても内省的な魅力ある女性ですが、その心をみつめる姿が浮び上がっています。考える前に、考えることなく、言葉を並べ立て、主義主張を押し通す人たちを敬遠し、言葉にするまえに深く考え、言葉をのみこんで考える、紫式部がいます。私も性格が似通っているので、彼女の思いがとてもわかる気がします。 どんどん口に吐き出すことに快感を感じる社交的な押しの強い人は弁論家や政治家向きですが、物語作者、歌人、詩人にはなれないと私は思います。彼女があの長大な美しい物語を織り上げ切った母体にはこのような、心の深さの方向

    紫式部の憂いと信仰。紫式部日記。
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    たかばたけこうじ。高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。紫式部の憂いと信仰。紫式部日記。
  •  『紫式部日記』(一)和泉式部の歌

    気の向くままの寄り道です。今回と次回は『紫式部日記』を通して『源氏物語』の作者の千年前の思いのうち、私の心を波立たせてくれた彼女の吐息にふれます。 今回は紫式部が和泉式部の和歌について記した個所です。 次の言葉が私にはとれも印象的でした。 「口から出るにまかせたあれこれの歌に、必ず魅力のある一点で、目にとまるものが詠みそえてあります。」 「実にうまく歌がつい口に出てくるのであろうと、思われるたちの歌人ですね。」 紫式部自身の和歌は『源氏物語』の豊かさに隠されてあまり評価されてこなかったようですが、物語のなかでの創作歌には歌う人間の思いの深さがにじんでいます。また彼女の人柄からか、穏やかな、もの静かな、落ち着いた内省のまなざしがあって、私は好きです。 とくに宇治十帖の、大君、中の君、浮舟の、悲しむ女性の心の揺れ動く歌には、涙で洗われるような、苦しみと背中合わせの澄み切った美しさ、落ち着きの底

     『紫式部日記』(一)和泉式部の歌
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    たかばたけこうじ。高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。『紫式部日記』(一)和泉式部の歌。
  • http://blog.ainoutanoehon.jp/blog-entry-169.html

    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    たかばたけこうじ。高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。催馬楽。紫式部と流行唄。
  • 紫式部『源氏物語』の物語論(四)

    ◎物語の誇張と方便 紫式部は、物語には「誇張」が質的に必要なものだと意識して創作したことが次の言葉からわかります。 「不自然な誇張がしてあると思いながらつり込まれてしまうこともある」 「よいことを言おうとすればあくまで誇張してよいことずくめのことを書くし、また一方を引き立てるためには一方のことを極端に悪いことずくめに書く。全然架空のことではなくて、人間のだれにもある美点と欠点が盛られてい るものが小説であると見ればよいかもしれない。」 「深さ浅さはあるだろうが、それを皆嘘であると断言することはできない。仏が正しい御心(みこころ)で説いてお置きになった経の中にも方便ということがあって、大悟しない人間はそれを見ると疑問が生じるだろうと思われる。方等経(ほうとうきょう)の中などにはことに方便が多く用いられています。結局は皆同じことになって、菩提(ぼだい)心はよくて、煩悩(ぼんのう)は悪いという

    紫式部『源氏物語』の物語論(四)
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。紫式部『源氏物語』の物語論(四)。
  • 紫式部『源氏物語』の物語論(三)

    ◎物語と当の歴史 紫式部の次の言葉には、彼女の物語の創作者としての誇りを感じます。物語だからこそできること、物語でなければできないことを、彼女が深く理解し創作したことが伝わってきます。 「神代以来この世であったことが、日紀(にほんぎ)などはその一部分に過ぎなくて、小説のほうに正確な歴史が残っている」 「だれの伝記とあらわに言ってなくても、善いこと、悪いことを目撃した人が、見ても見飽かぬ美しいことや、一人が聞いているだけでは憎み足りないことを後世に伝えたいと、ある場合、場合のことを一人でだけ思っていられなくなって小説というものが書き始められた」 紫式部はこの誇りを持っていたからこそ、あの長大な言葉の絵巻を描き切れたのだと私は思います。彼女はここでの短い言葉で次のことを伝えたかったのだと思います。 「正確な歴史」とは、政治的な変動でも支配階級の家系でも社会事件の記録なのでもない、そこには抜

    紫式部『源氏物語』の物語論(三)
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。紫式部『源氏物語』の物語論(三)。
  • 紫式部『源氏物語』の物語論(二)

    ◎物語の虚構性と真実 紫式部は、物語の虚構性と言葉の真実性の関係について、深く理解していたと、私は次の言葉に感じました。 以下紫文字は、与謝野晶子訳『源氏物語』「蛍」の巻の該当箇所の原文引用です。 「ほんとうの語られているところは少ししかないのだろうが、それを承知で夢中になって作中へ同化させられる」 「嘘ごとの中にほんとうのことらしく書かれてあるところを見ては、小説であると知りながら興奮をさせられますね。」 「けれど、どうしてもほんとうとしか思われない」 私は、物語の虚構性と対極のものに、万葉集の短歌とアフォリズムがあると思います。 たとえば万葉集の正述心緒(ただにこころをのべたる)の歌は、直情、ありのままの思い、伝えずにいられない心を、三十一文字の調べという最小限のかたち(虚構)の薄肌につつんだものです。 アフォリズムも同様に虚構を極限まで削ぎ落とすことを意思した言葉です。 これらの、な

    紫式部『源氏物語』の物語論(二)
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。紫式部『源氏物語』の物語論(二)。
  • 紫式部『源氏物語』の物語論(一)

    ◎『源氏物語』に思う 紫式部は『伊勢物語』の清流をうけ、『源氏物語』という豊かな川、文学の海に注ぎ込み輝き続ける大河を生み出しました。正直に告白しますと、私が『源氏物語』全巻を通読できたのは今回が初めてです。与謝野晶子の全訳で読みました。これまで10代、20代の時から「文学が好きなら読み切らないと恥ずかしい、読み切りたい」と思いつつ、有名な巻のつまみいと、前半まででの中断挫折で終わっていました。 今回読み通してこの作品は後半から結末に向かうほど深みと凄みを増していることを知りました。前半は光源氏の恋愛遍歴と栄華が主軸で最後までこの調子かと浅はかに思い込んでいましたが、「若葉」の巻以降、特に宇治十帖には、生きる喜びと裏表の悲しみ、光に生まれる陰影、涙と嘆きに祈りの哀しみが染み透り、静かに深く惹き込まれ感動し読み終えました。 素直な気持ちを記すと、日の文学、古事記から現代の小説、古代歌謡か

    紫式部『源氏物語』の物語論(一)
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。紫式部『源氏物語』の物語論(一)。
  • 紫式部のまっすぐな歌『紫式部集』

    『紫式部集』から彼女らしさを感じる歌を選び出しました。 ゆたかな歌物語『源氏物語』に織り込められた創作歌794首は除いた、彼女の自選だとみなされている、約百数十首の私家集です。ここには七首のみ選びましたが、彼女の歌の特徴が現れていると思います。 彼女の和歌は、まっすぐです。ストレートに思いを綴っています。心のみ見つめた内省そのものの歌もあります。 基調音は悲哀の情感です。いのちの憂さと悲しみに揺れ、花開いた、あはれの歌です。 『源氏物語』の豊かに揺らめく大河とおなじ基調音にふるえる滴のようです。ああ、という声になるかならないほどの彼女の吐息が心を染めます。 複雑な修辞もなく、常識的な穏やかな言葉を選び、古歌の知識も理知と機知のひらめきも見せびらかすこともないので、独立した和歌として、歌人として高く評価されなかったのは、わかる気がします。 でも、私はこれらの歌を読むと感動し、いい歌、好きな歌

    紫式部のまっすぐな歌『紫式部集』
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩のエッセイ。好きな古典の詩歌。紫式部のまっすぐな歌『紫式部集』。
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