寺山修司が逝ったのは1983年5月4日だったから、今年は歿後25周年にあたる。思潮社版『われに五月を』は寺山修司の三回忌のいわば「贈り物」(中井英夫)として復刊されたもので、冒頭に引いた「母」とは、修司の母・寺山ハツその人である。療養中の修司の写真が透けて見える中扉には、「五月に咲いた花」がハツの筆跡で書かれている。この「五月の花」はいかにも寺山修司の瑞々しい「きらめく季節」を髣髴とさせて余すところがない。先の戦争で夫を奪われ、ただひとりのわが子に寄り添い、ひたすら愛し理解しようと努めた母ハツの渾身の誄詞というべきだろう。 『われに五月を』は、十八歳の寺山修司を『短歌研究』第二回新人賞特選「チエホフ祭」五十首(1954年11月)をもってデビューさせた編集長の中井英夫がネフローゼを病んだ修司のために、せめて生存中に一冊の書物をという涙ぐましい献身によって刊行した詩歌集である(初版、作品社刊、