戦史に関するamuhimaのブックマーク (3)

  • 残飯シチュー - Wikipedia

    残飯シチュー(ざんぱんシチュー)は、太平洋戦争終戦直後(1945年[1]〈昭和20年〉から1946年[2]〈昭和21年〉頃)の日の闇市で提供されていた料理の一つ。「シチュー」とは名ばかりで、当時の日を占拠していた連合国軍最高司令官総司令部(以下、進駐軍と略)の残飯を再利用したものだが、東京都など各地の闇市で大変な人気を呼んだ。 進駐軍の堂から出た残飯が非正規のルートで闇市へ運ばれ、これを大鍋に開け、水を加えて煮込み直すことで作られており[3]、調理器具は鍋の代わりにドラム缶が用いられることもあった[1][4]。そのほかに手を加えることといえば、せいぜい量を増すために刻んだタマネギなどを加えるか[5]、調味料として塩を加えるか[3][5]、腐敗防止のために砂糖やカレー粉を加えるといった程度であった[6]。調理の手間はほとんどないが、当時としてはこれが正当な調理法であった[3]。値段は1

  • 特三式内火艇

    これらの写真は終戦後に英国軍調査団が日で撮影したものである。撮影場所については不明だが、写真が掲載されている報告書には、横須賀第十六特別陸戦隊に特三式内火艇20輌配備と書かれている。特三式内火艇が配備されていた横須賀第十六特別陸戦隊第2大隊は終戦時に千葉県富浦にあったので、そこでの撮影だと思われる。 前部フロートは後期型の特二式内火艇と同じく左右二分割式である。砲塔は一式中戦車から設計を流用しているが、砲塔上部には展望塔がなく特二式内火艇と同様のハッチになっている。車体機銃架は一式中戦車のものに似ているが、ボールマウントが真丸で一式中戦車のものより小さい。 砲塔後部は観音開きの大型ハッチによって全面が解放されるようになっている。これは砲塔リングの水密ハッチを取り出すためのものだと思われる。左側の扉には機銃架が取り付けられている。 特三式内火艇の車体後部は、潜水艦による水中輸送時の水圧に耐

    特三式内火艇
  • いろいろクドい話 » ソ連陸軍が到達した唯一の正解

    数あるドイツ軍礼賛戦記の中に確立しつつある「末期戦モノ」とでも言うべきジャンルでは必ず「○○攻勢に赤軍は野砲何千何百門、戦車何千何百輌を集結し」とうたい上げて敵の物量を強調するのが約束事です。この数字の読み上げは「精強を誇るドイツ機甲部隊であっても赤軍の膨大な物量の前に敗北は必至だった」と悲壮な雰囲気を盛り上げる道具ですから、太平記の語り口みたいなものです。 こうした太平記方式では「大砲が沢山あるなぁ」とは思えてもなぜ、何のためにそんなに大砲があるのかが解りません。膨大な物量を誇りながら、ちっとも豊かなイメージの無い世界史の奇跡のような存在のソ連軍がなけなしのリソースをどうしてこんなに注ぎ込んだのか疑問に思わない書き手も書き手、読み手も読み手です。 ドイツ軍の現状がどうであれ、ソ連軍が攻勢のために準備した砲兵火力は何処の何と比べて多いのか少ないのか、多くても少なくてもその理由や目的が解らな

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