家族の中で母と私は、爆心地から1500メートル地点で場所を異にして被爆し、私が最も重傷を負った。家族は、皆心身ともに傷を負ったものの幸運にも全員命拾いした。しかし現在は、長崎で同時に被爆した両親も姉も兄もこの世にはいない。 一緒に遊んで被爆した友人の母親は、浦上川で洗濯中に被爆し、黒焦げの遺体が川で発見された。亡くなって10数年後に知った、年下の親友も3年後に帰らぬ人となった。友人の死を知った後、私は、8月9日11時2分に毎年黙祷を捧げている。被爆時、私は10歳だった。 二度と起きてはならない原子爆弾の被害、米ソ両国の核開発はエスカレートし米ソの核競争は激化して、巨大な戦略兵器と言われる水素爆弾の実験へと進み、ビキニ環礁でのマグロ漁船「第五福竜丸」の被爆となった。 私は、大学を卒業して、自衛隊の幹部候補生学校を受験し、化学職種を選んだ。長崎の被爆者がなぜ自衛隊にと高校、大学の友人に質問を受
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