丸の内音頭の人気を感じたビクターは、それを全国的に流行させるため、1933年7月「東京音頭」と改題して発売[2]、当時の東京市民すべてが歌えるように改詞された。生まれ故郷の東京に盆踊りを作ることが念願だったという西条は「どうせ書くなら、ひとつ東京全市を賑やかに踊り狂わせる、たとえば阿波の阿呆踊のようなものを書いてみたい」と思ったと回想している[2]。全十番から成る東京音頭は小唄勝太郎と三島一声の歌唱でレコード化され、卑猥さを連想させる歌詞もあって爆発的に流行した。勝太郎の一連のヒット曲に多いハァー(ハー小唄)の歌いだしの、勝太郎の力強い、景気のよい歌声は日本中に響き渡った。ビクター社員は各地の盆踊りに電気蓄音機を持って行き櫓の上で踊り方を指導し、全国のレコード店でも踊っては手売りするなど宣伝に務め、盆踊りの季節が過ぎても人気は衰えず、10月の早慶戦野球では、入場券を求める観覧客が徹夜で神宮