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ブックマーク / www.flowerwild.net (3)

  • flowerwild.net - 零度の画面 2──厳かな冷たさに向けて

    前回、「零度の画面」という語彙をとりあえず特徴付けてみるとして、 1 )曇天の荒廃した土地やスラムで撮影。 2 )少人数(もしくはたったひとりの)クルーで、被写体の生活環境を乱さないまま、記録するように撮影を試みる。 3 )物語の連続性が希薄で、画面の説明的要素、つまり物語が要請する期待への応答が画面にほとんど閾入しない。 4 )話者が不在である。 という要素を挙げた。これはそもそも画面がいつ途絶えてラストショットになるかもしれぬコスタやジャ・ジャンクーの画面のある厳格さを言い表すことができまいか、と思索の末に捻り出したタームであったのだが、今回はどこか類似する画面の魅力を湛えた現代映画を採り上げてみたい。図らずも2の日映画なのだが、国籍を超越して前回言及した画面のある厳格さを、コスタとは異なる身振りで画面に定着させているともいえるふたりの日人作家の近作が、同年に封切りされた。そのふ

  • flowerwild.net − 蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.3

    7.作り手たちへの恋文 8.映画と社会 9.50年越しの復讐 7. 作り手たちへの恋文 蓮實:映画評論家としての私が具体的にどんなことをやってきたのか、それをあまり深く考えたことはなかったのですが、先日刊行された『映画の呼吸──澤井信一郎の映画作法』を読んでいて気づいたことがあります。要するに、私は、批評家として、この映画はこのように見るべきだとはどこでもいっていなかった。いわゆる「映画の見方」を語ったことはなかったのです。それに気づいたのは、インタヴィュアーの鈴木一誌さんが、私の書いた『野菊の墓』(1981)のごく短いレヴューを長々と引用しておられるのを読んだときのことです。引用された自分の文章を改めて読みながら、確かにこれは観客を無視した映画監督への「恋文」のようなものだと思いました。それがときによって「果たし状」のようなものとして機能する場合もあったのでしょうが、まだヴィデオもDVD

  • 蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.2

    5.批評家の才能 6.フィクションについて 5.批評家の才能 ──今後も新作映画について発言しようという意志を先生はまだお持ちであるとお見受けしたのですが。 蓮實:1の作品をそれにふさわしく評価し、最低2400字でレヴューを書くとなると少なくとも2度は見なければならないし、ときには1回しか見られず、その数日後に文章を渡さねばならないときもある。それやってると疲れます。次々に新しいものを見てそれについてけなしたりほめたりするのは年齢的に苦しく、もう次の世代の役割だと思っているんですが、なかなかこれというひとがいませんね。香港映画にとどまらず、他の地域の作品についても語る宇田川幸洋氏のレヴューは、ごく短いものでも作品評価の上で信頼していますし、文献を充分に読みこんだ上でそれを自分の言葉にして語る芝山幹郎氏のエッセイの含蓄の深さを好んでいますし、また小説家である阿部和重氏と中原昌也氏の対談時評

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