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皇室に関するaoki0104のブックマーク (14)

  • ご婚約発表の日の美智子さま 記者はご実家の中からお見送りした 元「お妃選び班記者」の取材ノートから(10)

    「まあ、お懐かしい」。30年近くたった後も、美智子さまは記者の顔を覚えていて、声をかけてくれた――。 当時「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)に聞く第10回は、ご婚約発表当日の様子や報道協定について、そして美智子さまとの後日談に焦点をあてる。 発表当日の朝も正田家内に ――ご婚約発表(と報道解禁)当日の1958年11月27日昼過ぎに、美智子さまが正田邸を正面から出られる際には、取材ヘリコプターも飛び、当時の写真などから判断すると少なくとも60~70人以上は報道陣がいて写真撮影をしていたようです。そんな中、佐伯さんは正田邸の部屋の中から美智子さまを見送ったそうですね。 佐伯 他社の人たちに見られてはまずかろうと、奧に引っ込んでいましたけどね。前日の11月26日夜にも遅くまで正田邸内にいたし、27日も朝早くから邸内にいました。その間、会社や自宅に戻って寝た記憶はないから、

    ご婚約発表の日の美智子さま 記者はご実家の中からお見送りした 元「お妃選び班記者」の取材ノートから(10)
    aoki0104
    aoki0104 2012/06/20
    「まあ、お懐かしい」、「ご無沙汰しております」。佐伯記者の取材対象との距離間、記者としての生き様に感銘を受けた。
  • 美智子さま邸へ「潜入」せよ 「秘密のルート」は「裏木戸」 元「お妃選び班記者」の取材ノートから(9)

    「日光にあたれない......」   皇太子さまと美智子さまのご婚約発表を直前に控え、情報をかぎつけた報道陣が、美智子さまの写真を撮ろうと自宅正面に陣取る中、美智子さまのご実家、正田家ではカーテンをたえず下ろすようになっていた。 一方、「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)は当時、美智子さまと同じ部屋にいて、「日光にあたれない......」という美智子さまのぼやきに耳を傾け、カメラも持ち込み、時折、邸内で美智子さまを撮影していた。多くの取材陣がいる中、どうやって家に入ったのだろうか。佐伯さんに聞く第9回は、「正田邸への秘密のルート」に焦点をあてる。 正田家は事実上の承諾を決めた ――前回で1958年11月3日、美智子さまのご実家、正田家の家族会議が箱根のホテルであったと伺いました。父や兄からの反対姿勢は変わらなかったが、美智子さまは結婚の意思を固めていたようだと。 佐伯

    美智子さま邸へ「潜入」せよ 「秘密のルート」は「裏木戸」 元「お妃選び班記者」の取材ノートから(9)
  • 皇太子さまからの「求婚」 家族の一部は反対しているが、「それでも私は」と決意 元「お妃選び班記者」の取材ノートから(8)

    皇太子さまからの求婚のお申し出をお受けするのかお断りするのか。美智子さまが家族会議の後に流した涙の意味とは――。 当時「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)に聞く第8回は、最終局面を迎えたお妃選びで、美智子さまや家族の苦悩に寄り添った体験を紹介する。 「正式に(お妃入りを)お断りしました」 ――前回、1958年9月18日に宮内庁の黒木従達侍従が美智子さまのご実家、正田家を訪れ、お妃入りを要請した話を伺いました。佐伯さんは同じ日に美智子さまの母冨美さんの話から、直接的ではないながらも、大きな動きがあったことを感じ取ることができたということでした。取材班にその旨、報告した際には大騒ぎでしたか。 佐伯 正直よく覚えていない。というのも、いくらお妃選考首脳らが正田家へ申し込んでも、人や家族が断ればその話は終わってしまう。ぼく自身、どうも正田家は断る公算が大きそうだなと、まだ思

    皇太子さまからの「求婚」 家族の一部は反対しているが、「それでも私は」と決意 元「お妃選び班記者」の取材ノートから(8)
  • 侍従によるお妃入り申し込み その日に「たまたま」取材で訪れていた 元「お妃選び班記者」の取材ノートから(7)

    記者が事前に約束していた美智子さまのご実家、正田家への何度目かの取材の日の朝、まったくの偶然で宮内庁の使者がある重大な知らせをもって正田家を訪れていた――。 当時「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)に聞く第7回は、佐伯さんが、ひょんな偶然から美智子さまの母冨美さんから美智子さまに関する相談を受けるようになるまでの佐伯さんの「強運」ぶりを紹介する。 外遊の話聞き、「お妃の話はつぶれたのか」 ――前回、1958年8月13日に美智子さまの母冨美さんと、近く美智子さまに会わせてもらえる約束をしてから、実際に8月31日に初めて美智子さまに会うまでの間に大きな状況の変化があったということでした。何が起きていたのですか。 佐伯 急きょ、美智子さんの欧米外遊が決まっていたんだ。外遊の話を聞いたとき「これはお妃の話はつぶれたのか」という思いが頭をよぎったのを覚えている。 そして実は、か

    侍従によるお妃入り申し込み その日に「たまたま」取材で訪れていた 元「お妃選び班記者」の取材ノートから(7)
  • 「美智子さん」との初接触に成功 しかしお母さんから「制止」が入った 元「お妃選び班記者」の取材ノートから(6)

    華奢という感じではなく、「健康美」という印象 ――そのときは美智子さまとはお会いできなかったのですか。初めて美智子さまと話ができたのはいつですか。 佐伯 ずっと後になって8月31日、五反田の自宅で、だね。正田家が恒例通りしばらく軽井沢へ行っていたうちの8月13日に正田家別荘にぼくが「遊びに」行き、そこで冨美さんから「東京に帰ったら美智子と会う機会をつくりましょう」と言ってもらっていた。 当時、皇太子さまも夏に軽井沢に滞在していた。それで先輩たちと交代で「軽井沢警戒」として出張していて、ぼくも2週間ほど軽井沢に泊まり込んでいた。 その夏、軽井沢でテニスをする皇太子さまの周囲でテニスをする若い女性たちには、各マスコミから注目が集まっており、美智子さまもそのうちの1人だった。特別に2人が親しそう、という雰囲気はまったくなくて、周りにいる多くの女性の1人という感じだった。そういう意味で何度も美智子

    「美智子さん」との初接触に成功 しかしお母さんから「制止」が入った 元「お妃選び班記者」の取材ノートから(6)
  • 「おーい、仕事したいか?」 すべてはこの一言から始まった 元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(2)

    「お妃選び取材?つまらなそうだな」「でもこの先輩怖いしな」――水面下で宮内庁幹部らによる皇太子(現天皇陛下)のお妃選びが進んでいた1958年当時、「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者、佐伯晋さん(81)は、ひょんなことから顔見知りの先輩記者に「召集」されて取材班に「ひきずり込まれた」。 佐伯さんに聞く第2回は、佐伯さんの「お妃選び」班入りの経緯を紹介する。 社会部の先輩記者が声をかけてきた ――インタビュー第1回で、ご婚約発表解禁があった1958年11月27日の前日の状況を伺いました。そもそも佐伯さんが「お妃選び班」担当になったのはいつですか。 佐伯 「昭和33年(58年)2月16日 召集」。当時のノート(メモ参照)にこう書いている。1955年から1人でお妃割り出し担当として取材を始めていた社会部の先輩の牧さん、伊藤牧夫さんから声をかけられたんだ。牧さんは、事件や調査報道に強いと定評のあ

    「おーい、仕事したいか?」 すべてはこの一言から始まった 元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(2)
  • 朝駆け取材で異変をキャッチ 宮内庁長官がいつもと違う方向へ 元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(3)

    「こんな原始的な取材方法やめましょう」、「何を言うか!」――朝5時半から宮内庁幹部ら宅を「朝駆け」し、午後も「夜討ち」や「候補者リストつぶし作業」を続ける生活を送っていた「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者、佐伯晋さん(81)はある日、幹部の動きの「異変」に遭遇する。 その後、しばらくたってから張り込み取材の存続をめぐって、先輩記者から激怒されることになる。佐伯さんに聞く第3回は、お妃選び班として取材を開始して間もない時期の暗中模索ぶりを伝える。 当時出始めの携帯無線機を車に持ち込む ――前回の最後に出てきた、宇佐美毅・宮内庁長官の「朝駆け」取材で起きた異変とは何だったのですか。 佐伯 1958年2月16日、取材班にぼくが「召集」され、翌日から宇佐美長官の張り込みを始めてしばらくは何もなかった。それが3月3日夕、皇居を出た長官の車が、初めて長官の自宅以外の方向へ向かったんだ。 3月1日か

    朝駆け取材で異変をキャッチ 宮内庁長官がいつもと違う方向へ 元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(3)
  • ご婚約発表前日、「美智子妃」が泣き崩れた 「この号外は取り消して頂けないか」 元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(1)

    ご婚約発表前日、「美智子妃」が泣き崩れた 「この号外は取り消して頂けないか」 元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(1) 東京タワーが完成したのは1958年。その年の11月末、皇太子さま(現天皇陛下)のご婚約相手が発表された。お相手は、「民間」の「日清製粉社長の長女、正田美智子さん」(現皇后陛下)で、世間では美智子さまの服装などをまねする「ミッチーブーム」が巻き起こった。 当時のご婚約発表の新聞記事は、「報道協定」のためタイミングは横並びだったが、著名評論家から「ずば抜けて、あざやかであった」と評された記事があった。朝日新聞の11月27日付夕刊に載った「正田家を見つめて六カ月」だ。 東京スカイツリーが開業予定の2012年、この記事を書いた元朝日新聞記者で、54年前の当時「お妃選び取材班」だった佐伯晋さん(81)に2部にわたって話を聞く。第1部は、数十年を経て見つかった当時の取材ノ

    ご婚約発表前日、「美智子妃」が泣き崩れた 「この号外は取り消して頂けないか」 元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(1)
    aoki0104
    aoki0104 2012/06/20
    なんというご苦労、ご心労。言葉が出ない。
  • 美智子さまご実家と接触に成功 偶然重なった結果だった 元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(4)

    「君が最初にもってきた情報だから、君がすぐ正田家をあたってくれ」。膨大なお妃候補リストを1件1件つぶす、という地道な作業を先輩記者たちと続けていた「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)が、後に皇太子妃となる美智子さまのご実家、正田家の家族と直接会って話ができるようになったのは、いくつかの偶然が重なった結果だった。 佐伯さんに聞く第4回は、正田家との初の接触に至る経緯を聞く。 「人は英語ができて美人」情報が入る ――前回の話で出てきた1958年5月に入ってきた「脈のある」情報とは、どんな話だったのですか。 佐伯 5月11日、取材先にしていた都内のS夫人から「家へいらっしゃいよ」と電話があって翌日の日中に行ってみた。すると学習院出身のS夫人は「(お妃有力候補は)残念ながら学習院(出身者)じゃないのよ」と話し出し、「父親は、財閥系ではない実業家」「人は英語ができて美人」と

    美智子さまご実家と接触に成功 偶然重なった結果だった 元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(4)
  • 皇太子さまから正田家に送られてきた写真 「これはどういう意味なんでしょう」 元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(5)

    「こんな写真が皇太子さまから送られてきたのですが、これはどういう意味なんでしょう」――当時「お妃選び取材班」だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)は、美智子さまのご実家、正田家関係者からこんな「逆取材」を受けた。 佐伯さんも知らない話で、目を丸くして聞いていた。佐伯さんに聞く第5回は、佐伯さんがいつの間にか、取材を通して正田家とお妃選考首脳との間の「触媒になっていた」話をきく。 「私どもも知りたいことがいくつもございますので」 ――前回では、1958年5月20日に美智子さまの父で日清製粉社長の英三郎さんと初めて会ったときの話が出てきました。 佐伯 英三郎さんは、判で押したように「とんでもない。夢みたいな話です」と4、5回繰り返すだけで、何も情報は取れなかった。20分程度で引き揚げ、2階の社長室を出て正面の広い階段を下りていると、途中で足音が聞こえた。階段を下りきった頃に、その男性(ぼくよ

    皇太子さまから正田家に送られてきた写真 「これはどういう意味なんでしょう」 元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(5)
  • 「皇太子さまのご意向もお酌みして...」 こう言ってお妃候補の中に入れる 元「お妃選び班記者」が推理する「テニスコートの恋」の「真相」(4)

    「皇太子さまのご意向もお酌みして...」――。お妃選考首脳らは、こう言って巧みに「民間」の美智子さまをお妃候補の中に入れることに成功した。 「お妃選び取材班」担当だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)に皇太子さまがたの「『テニスコートの恋』をめぐる虚実」に関する推理を聞くインタビュー第2部の4回目は、「皇太子さまに恋をして頂く」必要性をめぐる選考首脳らの思いについて語ってもらう。 候補に加えることをさりげなく提案した 前回、ご婚約が11月に決まる年の1958年の2、3月あたりに、皇太子さまと美智子さんとをめぐり、同じテニスクラブ入会などの動きが出始めたものの、お妃選考として、まだ形式的には美智子さんが命になっていたわけではない、というところまで話しました。 1958年1月に旧華族のK嬢がほぼダメとなった後、今度は松平信子・常磐会会長が、やはり旧華族のH嬢を検討するよう提案します。宮内庁

    「皇太子さまのご意向もお酌みして...」 こう言ってお妃候補の中に入れる 元「お妃選び班記者」が推理する「テニスコートの恋」の「真相」(4)
  • 「最初の軽井沢テニス」は偶然だった 「(皇太子さまを)負かしちゃったわ」 元「お妃選び班記者」が推理する「テニスコートの恋」の「真相」(3)

    「(皇太子さまをテニスで)負かしちゃったわ」――美智子さまは当時の友人らにこう無邪気に語られた。 「お妃選び取材班」担当だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)に、皇太子さまがたの「『テニスコートの恋』をめぐる虚実」に関する推理を聞くインタビュー第2部の3回目は、お妃選びで旧華族の線が厳しくなる中、お妃決定へ向け「奮闘」する選考首脳らの姿について語ってもらう。 「田島日記」にも「軽井沢テニス」は全く出てこない ご婚約が決まる1958年(11月)の前年、57年10月の東京・調布でのテニスに皇太子さまが学友を通じて美智子さんをお誘いになった段階では、皇太子さまはまだ「恋に落ちた」わけではなく、「気にはなっている」段階だ、という推理を前回話しました。 一方の美智子さんは、1957年9月にあった聖心女子大の同窓会で、8月の軽井沢での皇太子さまとの初テニスのときに家族の知人から撮ってもらった写真を持

    「最初の軽井沢テニス」は偶然だった 「(皇太子さまを)負かしちゃったわ」 元「お妃選び班記者」が推理する「テニスコートの恋」の「真相」(3)
  • 「正田美智子さんという方は覚えておられますか」 皇太子さまにささやいた東宮侍従 元「お妃選び班記者」が推理する「テニスコートの恋」の「真相」(2)

    「正田美智子さんという方を覚えておられますか」、そう言って「黒木東宮侍従」が皇太子さまに水を向けた―― 「お妃選び取材班」担当だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)に、皇太子さまがたの「『テニスコートの恋』をめぐる虚実」に関する推理を聞く第2部の2回目は、皇太子さまと美智子さまが初めて軽井沢で一緒にテニスをされる前後の動きについて語ってもらう。 「旧華族」が次々リストから消えていった 前回、ご婚約が決まる1958年の前年、57年の秋ごろから、お妃選考首脳の一部がお妃候補の選考対象を、従来の旧華族から民間にも広げようと考え始めた、というところまで話しました。 「選考首脳の一部」とは、中心メンバーといってよい5人のうち、宇佐美毅・宮内庁長官と黒木従達・東宮侍従の2人だとぼくはにらんでいます。間違いないでしょう。 1957年秋当時、少なくとも表面的にはあくまで旧華族のお嬢さんの線で選考を進めて

    「正田美智子さんという方は覚えておられますか」 皇太子さまにささやいた東宮侍従 元「お妃選び班記者」が推理する「テニスコートの恋」の「真相」(2)
  • 「テニスコートの恋」の真相 皇太子さまご結婚は「お見合い」か 元「お妃選び班記者」が推理する「テニスコートの恋」の「真相」(1)

    「テニスコートの恋」の真相 皇太子さまご結婚は「お見合い」か 元「お妃選び班記者」が推理する「テニスコートの恋」の「真相」(1) 軽井沢のテニスコートで始まった皇太子さま(現天皇陛下)と美智子さま(現皇后陛下)の恋......漠然とそんなイメージを抱いている人も多そうだ。しかし、お妃選びが最終局面を迎える1958年当時に「お妃選び取材班」担当だった元朝日新聞記者の佐伯晋さん(81)は、「お2人のご成婚が単純な恋愛結婚だった、というイメージは事実と異なる」と考えている。(以下、呼称は当時のものです) 佐伯さんに話を聞く第2部は、皇太子さまと美智子さまのご成婚について、「世間のイメージ通りの恋愛結婚だったのか、それとも周囲によりお膳立てされた『調整された結婚』だったのか」をめぐる佐伯さんによる分析・推理を紹介する。 2002年に出版されたで明らかになった当時のお妃選考首脳の日記資料などを踏ま

    「テニスコートの恋」の真相 皇太子さまご結婚は「お見合い」か 元「お妃選び班記者」が推理する「テニスコートの恋」の「真相」(1)
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