[あとで書く] もちろん使徒は読み手。日記人格シンクロ率400㌫、自我崩壊、読み手の核(コア)直撃、辞めちゃダメだ辞めちゃダメだ辞めちゃダメだ・・・、チラ裏の中心でアイを叫ぶブロガ、はブ百人委員会、はブコメ - 魂の座、ネット人格補完計画、「コ、コメントを喰ってやがる!(コメント居座り)」、非コミュ絶対領域 - HTフィールド、暴走(のちに失踪) うーん、どちらかというと オレ理論向きかなぁ、この話題。
185 :('A`):2005/11/13(日) 20:17:02 0 あのね、ちょっとだけ言わせてもらってもいいですか。 この映画は、何一つ救いがない映画ですよ。 実際には、現実には、絶対にありえないことを、 思いっきり細部までこだわった現実的な日常の世界として描くなんて、 反則以外の何物でもない。 ファンタジーの世界、少女漫画の世界なら、そこにはフィクションとしての前提があり、 それに則った作品としているから、見る側にも、救いがある。 それは、受け手が、初めから「嘘の世界」を前提として見ているからだ。 例えば、漫画「奇面組」や「彼氏彼女の事情」など。初めからネタの世界でしょう。 手塚治虫先生の世界でいえば、「ヒョウタンツギ」の登場により、読者は救いを得られる。 ドラマや映画なら、監督がいて役者が演技している裏舞台の世界が前提としてある。 このアニメ作品には、それらが一切無い。 見ている
数年前までは一種のカルチャー用語であった「オタク」も、テレビや新聞など一般メディアが取り上げるようになって以来、普通名詞となりつつある。それだけ世の中にオタクが増えた、という見方はあまり正確ではなく、この場合は単にオタクと呼ぶべきスレッショルドが下がっただけ、と捉えるべきであろう。 オタクとい う言葉が発祥した80年代、この言葉の語感はもっと反社会的、ではないな、どちらかと言えば脱社会的な響きを持っていた。当時同じようなカルチャー用語に「ビョーキ」があったが、双方とも社会的不適合性という意味では、同じようなものであったろう。 だが「ビョーキ」のほうは、それほど長期に渡って使われなかった。そもそもこの言葉の基盤となった文化とは、YMOを中心としたテクノミュージックであり、それに派生するテキスト、美術、パロディであった。そしてその象徴の「散解」により、「ビョーキ」を構成していた層は徐々に解体さ
老婆の営む定食屋のドアに「入り口です」の文字。 どう見ても他に入り口と間違うような場所は見あたらない。 黙々と働く2人の老婆。何を思い、わざわざあのような貼り紙を貼ったのか。全巻どころかファンブックまで揃ってるワンピースを読みながら、俺は飯が来るのを待つ。 帰り道にあったゴミ集積所に束ねられた古雑誌がおかれている。 ぼろぼろの紙が貼り付けてあり、「ゴミの日でもないのにゴミを出す非常識な人間は誰ですか?」の文字。黒マジックで書かれているが、「誰」の文字だけ赤い。 ゴミ出し日をを守らない人間は間違っている。ただ俺の感覚で言えばわざわざ「誰」の文字だけを赤マジックで書く奴の方が異常だ。黒マジックから赤マジックに持ち替える瞬間を想像すると全身がゾッとする。 今あなたの娘さん、俺とセックスしてますよ tropyに登録されるページが自作ポエムめいたものばかりであるのには笑った。 あれを面白がってる人っ
id:a666666:20051019:1129650149 少女マンガを読んでる男のコって、女のコのことを絶対バカにしないし、繊細で女心を深く理解してくれてる気がする。相談とかもしたくなる (短大生) 少女マンガは萌えへの撤退なんかよりずっと大きな問題だと思った。どこから見ても隙なく間違ってるだろこの認識。 メンズノンノじゃ証言自体あるかどうか疑問。これがノンノに載ってたんならあるかもしれないと思ってしまうが。 でもまあこれが真実だとすると、モテのために少女漫画を読むという(オタの)道に外れた行為をするのもいいんじゃねーの?と思うわけで、何点かチョイスしてみよう。 NANA まずはクッキー連載のナナ。映画化する前からかなり人気の高かった作品ですが、今回の映画化で人気に加速。ただ、オタ的には「マイナー時代から応援してたのにメジャーになってから読む奴はぬるい」と感じてしまい、今手を出すのはた
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