ブックマーク / r.gnavi.co.jp (10)

  • 「海外移籍は失敗」と言われても……水野晃樹は試練を乗り越えるとき、高校時代を思い出す - ぐるなび みんなのごはん

    イビチャ・オシム監督が日本代表を率いていたとき 期待された選手がいた 監督は「ボールと遊ぶ」と批判しながらも選び続けた 中村俊輔が活躍するセルティックに移籍もした だがそこで待っていたのは厳しすぎる競争 帰国を決意したが移籍先には葛藤する さらにケガが相次ぎ出場機会が減少 チームを渡り歩くことになった だが水野晃樹は明るさを失っていない いろいろなサッカーに自分を適合させながら 元気にボールを蹴っている 水野のプレーにはサッカーの楽しさが詰まっている セルティックではチーム内の競争に勝てなかった 僕のサッカー人生では、どの時期が辛かったとかないですね。辛くなかったんじゃなくて、ずっとそれぞれのときに何か辛い……辛いって言うか、悩み苦しんでることが続いてて。たとえばセルティックに行ったときも試合になかなか絡めず、結局2年半いて公式戦11試合だけで終わって。 で、日に帰ってきたら前十字靱帯の

    「海外移籍は失敗」と言われても……水野晃樹は試練を乗り越えるとき、高校時代を思い出す - ぐるなび みんなのごはん
    aratasuzuki
    aratasuzuki 2018/10/05
    千葉に行って、なんとかJ1に上げて、自分のキャリアが終われたらいいなって。そう思って帰ったんですけど、いろいろあったり、考えさせられることもあったりして…
  • 廣山望はなぜサッカーで世界を渡り歩いたのか……海外移籍で劇的に変わった人生観を語る - ぐるなび みんなのごはん

    かつて学習塾のCMに登場していたJリーガーがいた。 イメージが合致しただけでなく実際に通っていたそうだ。 今でも廣山望はそんな知的な雰囲気を漂わせる。 ところが廣山の行動は傍から見ると論理的ではなかった。 Jリーガーとして5年目でチームのリーダーになるかと思われた矢先 急にパラグアイへと移籍する。 2002年日韓ワールドカップの半年前には代表入りもしていたのに、 ブラジル、ポルトガル、フランスと渡り歩き 日に一度復帰しながらも現役最後はアメリカで過ごした。 何が廣山を駆り立てたのか。 廣山が海外で見てきたものは何なのか。 飄々としながらも廣山の言葉は切れ味が鋭かった。 Jリーグで続けるのはよくないという危機感 僕に苦しかったときって、あんまりないですね。そう思えるようになった決定的なきっかけはたぶん2001年、パラグアイのセロ・ポルテーニョに移籍していったときで、自分が大きく変わる中で欠

    廣山望はなぜサッカーで世界を渡り歩いたのか……海外移籍で劇的に変わった人生観を語る - ぐるなび みんなのごはん
  • 2010年、川島永嗣はいかにして抜擢されたのか……オシム、岡田時代のGKコーチ・加藤好男が語るGKの難しさとは - ぐるなび みんなのごはん

    加藤好男氏は日本代表GKコーチとして激動の時期を過ごした 就任して2年でイビチャ・オシム監督が倒れ、 次に就任したのは自分と同期で古河電工に入社した岡田武史監督 指揮官が交代しただけではない 2010年南アフリカワールドカップメンバーを前にして 川口能活は負傷しており楢崎正剛のバックアップは経験が浅い そんな苦しいときに起用された川島永嗣が活躍し そのまま正GKの座を確保することになった その川島が育つ過程も加藤氏は見続けていた 今はJFAアカデミー福島のGKコーチとして 静岡県御殿場の時之栖で後進の指導にあたっている 加藤氏は次の日を背負うGKをきっと育ててくれるだろう デビュー戦で5失点 次の試合からベンチ外へ 私は日リーグに入った年から5年間で5試合しか出られなかったんですよ。 あまりにも高校、大学と順調すぎたんです。高校は1年から試合で使ってもらって、高校選手権には1年生のと

    2010年、川島永嗣はいかにして抜擢されたのか……オシム、岡田時代のGKコーチ・加藤好男が語るGKの難しさとは - ぐるなび みんなのごはん
  • 永井雄一郎のサッカー人生はずっと苦しくて今も苦しい……自分は何と戦ってるんだろう - ぐるなび みんなのごはん

    インタビューは前日に延期された 11日後、永井雄一郎を尋ねた先は病院だった 右足のギブスが痛々しい そんな状況で永井は口を開いてくれた 足を上げたままでないと痛いそうだ 椅子に座りながら右足だけ持ち上げ 不自然な格好のままで永井は話し続けてくれた 表情が明るかったのはせめてもの救いだった インタビューの延期を申し出ても 気を遣って応じてくれる ユーモアを交えながら笑顔を絶やさない だが現役時代はずっと苦しいときだと思っているそうだ アキレス腱が……後ろから蹴られたような衝撃 実は今が自分のサッカー人生の中でも、大変なときなんですよ(笑)。3月18日に神奈川県のカップ戦に出ていて、右のアキレス腱を切っちゃって。 相手がキックミスして右サイドの自分のところにボールが来たんです。前半30分過ぎぐらいに。軽くジャンプして胸トラップして、カウンターに行こうと思って前を見ながら着地したら、パチーンって

    永井雄一郎のサッカー人生はずっと苦しくて今も苦しい……自分は何と戦ってるんだろう - ぐるなび みんなのごはん
  • 佐藤勇人の不器用な生き方と心の傷……日焼けサロンへ行くからとユース代表を辞退した男のサッカー人生 - ぐるなび みんなのごはん

    待ち合わせ場所に現れた佐藤勇人は とてもサッカー選手とは思えない出で立ちだった。 ところが席について話すとイメージはがらりと変わる。 最初から最後まで敬語。 コーヒーもこちらが手をつけないと飲まない。 どんな話にも真剣に答えてくれる。 年上の相手と接するときはそうするのだそうだ。 あまり年齢差がないと告げても最後まで礼儀正しい姿を崩すことはなかった。 双子の弟、佐藤寿人も礼儀正しいが勇人もまるで同じだ。 辛い思い出は多かったという。 「アニキのほう、またか」と言われているのも知っているそうだ。 そんな勇人は人間味溢れる話を聞かせてくれた。 「人生が終わった」弟は受かって自分は落ちたという心の傷 今までサッカーやってると、いろいろ辛いことはあったんですけど、その中で一番辛かったのは、小学6年生のジェフのセレクションに落ちたときですね。寿人は受かって自分はダメだったので。 自分たち2人のどちら

    佐藤勇人の不器用な生き方と心の傷……日焼けサロンへ行くからとユース代表を辞退した男のサッカー人生 - ぐるなび みんなのごはん
  • オシムさんじゃないと選ばれないだろうと思っていた……羽生直剛を今も苦しめる日本代表の記憶 - ぐるなび みんなのごはん

    2000年、2004年とアジアカップを連覇していた日は イビチャ・オシムさんに率いられて2007年の大会に臨むことになった。 だが準決勝でサウジアラビアの後塵を拝し 3位決定戦で韓国と対戦することになる。 試合はスコアレスドローのまま120分間を終え PK戦は5人ずつ終えて誰も失敗しなかった。 そして運命の6人目、羽生直剛の蹴ったボールはGKに弾かれてしまう。 試合後、羽生は真っ青な顔をしていたが逃げることなく報道陣に対応していた。 PK失敗が羽生に大きな傷になっていたことは あのとき傍から見ていてよくわかった。 あのときから10年が経った。 そろそろあの話が出来るようになっているのではないか。 だが「アジアカップの話を」と切り出したとき、 羽生の顔は悲しみと苦しみで大きくゆがんだ。 それからしばらくして、いつもの表情に戻ると 羽生はあのときの苦しみの理由をゆっくりと話はじめた。 アジア

    オシムさんじゃないと選ばれないだろうと思っていた……羽生直剛を今も苦しめる日本代表の記憶 - ぐるなび みんなのごはん
  • あの勝ちがなかったら今、監督ではいられなかった……長谷川健太の運命を分けた一戦 - ぐるなび みんなのごはん

    どんなサッカーシーンを語ってもらえるのだろう。 高校時代、三羽ガラスとして活躍したときのことか。 大学時代、名選手たちと大暴れしていたときのことか。 清水エスパルス時代には酸いも甘いも噛み分けた。 監督になってからの思い出も多いだろう。 一気に栄冠を手にした日々を誇らしげに聞かせてもらえるのではないか。 ところがまるで違った。 長谷川健太監督が見つめているのは現在。 そしてそこにつながった名監督の台詞だった。 どんなときにもストレート。 自らの采配の欠点まで赤裸々に語ってくれる。 王道を歩み続ける人物像がそこにはあった。 オシム監督率いるジェフに勝った忘れられない1勝 自分のサッカーシーンの中で忘れられないのは……。現役選手のときはケガで試合に出られないときですかね。監督は負けるといろんなプレッシャーがかかってきますから……うーん、やっぱり忘れられないのは監督になったばかりの時のことですね

    あの勝ちがなかったら今、監督ではいられなかった……長谷川健太の運命を分けた一戦 - ぐるなび みんなのごはん
    aratasuzuki
    aratasuzuki 2017/07/28
    オシム監督が気を遣って、「今めざしているサッカーは間違ってない」という主旨の話を会見で言ってくれたらしいです。そんなオシムさんのフォローもあり、大きな自信になった一勝でしたね。
  • オシム監督から岡田監督に代わったとき、フッと何かが切れた……坪井慶介が語る日本代表の記憶 - ぐるなび みんなのごはん

    坪井慶介は飄々と記者たちの前に現れる。 「僕(ネタを)持ってませんよ」などと言うが、 決してぞんざいな態度ではない。 相手が質問してくる限り丁寧に答え続ける。 表情を大きく変えることもなく、 ほんの少しだけ笑顔を交えながら淡々と話している。 2002年、日韓ワールドカップが終わった直後から注目を集めた。 その年にJリーグ最優秀新人賞に選ばれ 日本代表チームにも選ばれる。 プロになる前に受けた警告は1回だけ。 しかも味方選手の責任を主将として肩代わりしたものだった。 そんなエリートの好青年は生き様を変えずに15年過ごしている。 だが周囲は気付いていなかったかもしれないが 心がささくれ立ったこともあったそうだ。 それでも家では辛さを見せなかったという。 見た目が変わらないのは 「髪型が変わらないのは大きいかもしれませんね」という。 でもそれだけではない。 感情の揺れが少ないことや いつも配慮の

    オシム監督から岡田監督に代わったとき、フッと何かが切れた……坪井慶介が語る日本代表の記憶 - ぐるなび みんなのごはん
  • 阿部勇樹が振り返るオシムの言葉「もう一回一緒にやりたい、またあの練習がしたいと思った」 - ぐるなび みんなのごはん

    2006年、ドイツワールドカップ直前のメンバー発表でジェフユナイテッド市原(当時)からは巻誠一郎選手が選ばれた。その感想を求められたイビチャ・オシム監督は、一通りのコメントが終わった後、別の話を始める。 「まず、阿部(勇樹)が選ばれないことに対して、私はすごく残念です」 「ただ、1つ良かったことは、まだ彼には時間があるということです。だからこそ、ここに集まっている人たちに、逆に選ばれなかった選手たちのことを少し考えてもらいたいと思います」 そしてその年、オシム監督が日本代表を指揮するようになると、初戦のトリニダード・トバゴ戦こそ別大会の関係で招集できなかったが、その後はずっと阿部を招集し、守備ラインの中心に据えた。トレーニングでも阿部は他の選手にオシム監督の意図を伝える役割を担っていた。阿部がオシム監督にとって特別な選手なのは間違いなかったし、阿部のオシム監督に対する全幅の信頼も、いつも決

    阿部勇樹が振り返るオシムの言葉「もう一回一緒にやりたい、またあの練習がしたいと思った」 - ぐるなび みんなのごはん
  • 巻誠一郎はなぜ記者に心を閉ざしたのか 日本代表で刺激されたコンプレックス - ぐるなび みんなのごはん

    2006年6月9日、ジーコ監督がドイツワールドカップに出場するメンバーを発表した。最後の名前が読み上げられたとき、急に会場はざわめいた。その最後に呼ばれた選手が、巻誠一郎だった。 2005年7月31日、東アジア選手権の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)戦で日本代表にデビュー。そしてワールドカップ予選では1試合もプレーしなかったものの、大会のメンバーに選ばれた。ジーコのサプライズだった。 だが、大会では苦しみを味わう。2006年ワールドカップで日は1分2敗と1勝もできず、巻の出番はブラジル戦の60分間のみに終わった。 ワールドカップ前から、巻は「取材しづらい」選手として知られるようになっていた。メディアにはほとんど話をしない。言葉数も少ない。取材を申請しても断られるケースもあった。そこから、「巻はワールドカップのメンバーに入り、人が変わった」という評判が立っていた。それまで好人物として知

    巻誠一郎はなぜ記者に心を閉ざしたのか 日本代表で刺激されたコンプレックス - ぐるなび みんなのごはん
  • 1