血のメーデー事件(1952年) 安保闘争(1960年) 第二次世界大戦後には、解体されていた学生運動が復活し多くの大学で大学民主化運動が行われ、その高揚を背景に1948年に全日本学生自治会総連合(全学連)が結成された。全学連は当初は日本共産党の影響が強く、その活動方針と軌を一にしていたが、1955年の日本共産党第6回全国協議会(「六全協」)で、共産党が大幅な路線変更を行ったことを契機として徐々に距離を置くようになり、共産党から除名された学生達が中心となった新左翼共産主義者同盟(ブント)が、全学連の主導権を握るようになった。 国民的な議論となった1960年の日米安全保障条約改定をめぐる反対運動(安保闘争/安保紛争)では、この全学連(安保全学連・ブント全学連)が運動の中心を担った。この闘争の最中、東大文学部の学生だった樺美智子(かんばみちこ)が機動隊との衝突の最中に死亡する事件が発生した。 安
