写真はほんとうのところはよく分からないがたのしみたい(Emmaus' 2010-09-09) 下川さん、作為は下心とかフィクションと言い換えてもいいのですが、作為にもいくつかの段階というか作法があって、ありふれているのは作為的には見えないようにする作為、作為を隠そうとする作為ですね。僕もそれに陥ることがあるけど、だんだん嘘臭さが鼻について我慢できなくなります。それに比べて,マリオ・ジャコメッリは作為を隠さずに、あからさまな作為を通して、でも、どんな生にも寄り添っている死の影のようなとんでもないリアリティ(タナトス?)を引き出すことをやってのけているから、否応なく引き込まれます。そしてアン・ビクトルの場合には、写真はどうあっても作為的なんだけど、そんなこと言ったら人生は作為の塊みたいなものなわけだから、下手な小細工はしないで、人生の作為の中に写真の作為をきちんと置く、そういう覚悟が感じられる