2021年3月8日のブックマーク (2件)

  • 明治の作家は言文一致運動なんてなんでしたの?

    書き言葉を話し言葉に近づけるためにそういう運動をしたみたいなことが日語学のに書かれてたるするが腑に落ちない。 ある言葉(単語)に対して書き言葉とか話し言葉とかいう区別は存在しないと思うから。 つまり、その単語をしゃべるときに使ったら話し言葉、書くときに使用したら書き言葉というだけの話だと思う。 たとえば漢熟語が書き言葉であるとか言われるが、「自分」なんて言葉はしゃべるときも書くときも普通に使う。 単語に依存して規定されるものでないのならば、「話し言葉」や「書き言葉」が何か形の定まった文体になることもありえない。 それなら話し言葉や書き言葉との間に表現の傾向の差みたいなものは生じえないわけで、一方を他方に接近させる「一致運動」なるものもやりようがない。 そもそも言文一致運動が始まる前の明治初期の安愚楽鍋なんか、いわゆる書き言葉的な臭いが全くしない。 たとえばこんな文で書かれているわけだ。

    明治の作家は言文一致運動なんてなんでしたの?
    axaxaxaxxaxaaxaxaxaxaaxaxa
    axaxaxaxxaxaaxaxaxaxaaxaxa 2021/03/08
    話し言葉は主観的になりやすい気がするけどな、私はこう思ったみたいに。そうであると客観的に話すとは何かうーん難しい問題だ・・・。話し言葉で体言止めってできない気がするね。存在するなら一度お会いしたい。
  • 庵野秀明はもうエヴァンゲリオンを創れない|小山(狂)

    2016年、「シン・ゴジラ」を観たときにふと思ったことがあった。 庵野秀明は、もうエヴァンゲリオンを創れないんじゃないか、と。 「シン・ゴジラ」は絆の物語だった。震災(ゴジラ)という巨大な脅威に人々が立ち向かう物語。省庁の垣根を超え、官民の垣根を超え、現場と会議室との垣根を超え、国と国との垣根を超え、人々は連帯し、協力し、共闘する。 人と人との間にある見えない壁を、A.T.フィールドを超えて、人と人とが繋がり脅威に立ち向かう物語。それが「シン・ゴジラ」だった。 そしてそれは、素晴らしい物語だったとも思う。筆者も劇場で何回か観て、その後もBDディスクを購入し何十回と観ている。特に陳腐化しつつあったゴジラという怪獣を、震災という記憶に新しいイメージに乗せて蘇らせたところは鮮烈としか言いようがない。1954年の人々が初代「ゴジラ」に感じた衝撃と近いものを「シン・ゴジラ」を観た我々は感じることがで

    庵野秀明はもうエヴァンゲリオンを創れない|小山(狂)
    axaxaxaxxaxaaxaxaxaxaaxaxa
    axaxaxaxxaxaaxaxaxaxaaxaxa 2021/03/08
    最後のオチはそんなエヴァでも認めると言うのかと思ったけど、諦念のままで笑った。