願いを叶えることに対する罪悪感は、この世の中に根強く息づいている。 例えば、願いが叶えられると同時に、代償として何らかの罰を受けるという物語は古今東西、様々な例が見受けられる。 しかし、願いと罰がセットであるのは、願うことが道徳的に罪深い行為だからではない。 単に、その願い方が未熟であるゆえのことなのだ。 すなわち、その願いが叶った上でも、願った人間の意図せざる結果としての不幸が成立してしまう余地があっただけだ。 願うことで「罰」を感じる人間は、その不幸が成立しうる未熟な願い方をしているだけなのだ。 そのことはこういう例が分かりやすいだろう。 例えば、「お腹いっぱいにお菓子を食べたい」という願いが叶ったとすると、 体重が増えたり、ともすれば生活習慣病などの病気になったりすることがある。 それが、願いが叶うことの「罰」と呼ばれるものの本質だ。 別に、願いを叶えたことに対し誰かが道徳的な罰を付
![願いを叶えることの「罰」は、その願いの内側に存在している](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/b1638cdb5807a4788e4ba3c1109a984166e095fc/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fanond.hatelabo.jp%2Fimages%2Fog-image-1500.gif)