「女らしくしたくない」女子を昔から好む癖があるんだけど、 その実中身は全然普通の女子だったりして、凄く凹む。
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green - 一人で暮らす 深く考えないで捨てるように書く - では誰も結婚しないかというと 上の二つの記事を読んで、結婚ってなんなんだろう、って考えた。 ぶっちゃけていえば、やっぱ結婚って概念の核になるものは、生殖なんだと思う。 出来るだけ優秀な遺伝子をキープしたい女と、 できるだけ多くの女とヤりたいが、いい女なら独占したい男と、 双方の思惑が歩み寄って、1対1で永続的に暮らすというシステムができた。 制度としての結婚とか、男と女の役割分担うんぬんなんてのはどれも、生物としての人間の「生殖」という営みに付随してあとから付いてくるものに過ぎん。 この生殖という「生の営み」の流れに本能的にあたりまえに自然に乗っかるのが、生存競争における「適者」だ。できちゃった結婚なんてのは生き物としてごくまっとうな姿。自然に求め合い、結びついて、子孫を残していく者たちこそが生き残っていく。 二次元キャラと
歯車じゃない人間は、死んでるのと同じだぜ 社会において、他の歯車を回す、動力源のような歯車だったり、 外側でカラカラ回る歯車だったりいろいろだが 自給自足の生活をせず、社会に属して生きるのならば、 人は皆、大同小異、歯車になる ベンチャーのやり手社長だろうが、ジャニーズのモテモテタレントだろうが、 歯車として機能しなくなったら捨てられる どっかの三文ドラマで習った世界観に毒されてないで、 世の中の人々の関係をもっとよく観察することだ
昔から優等生だったので、自己顕示欲がものすごいわけ。でも、この年になると誰もちやほやしてくれないので、自分ってほんとに生きる価値あるかなーと思ってしまう。そもそも生きる価値って何だ? 生きたいから生きてるだけであって、価値求める必要ないよな? でも、生きたいかと言われたらそれも微妙。夢はもう叶わないし。いや、追い続けることはできるよ? でも、叶わない夢に一生をかけて堕ちるのって、自殺するのと一緒じゃん? 最終的には死んだも同然な生活になってると思うよ? 娯楽の空しさも知ってしまった。結局俺って、自己顕示を楽しんでたみたいなんだよね。テレビゲームも一人でやってもつまんない。上手くなって「すげー」って言われるのが楽しかったけど、この年になっちゃうと・・・ね。カラオケも、喉にポリープができて下手になっちゃったから駄目。映画見まくってオタクになってみたって、別に誰にも尊敬されないだろうし。 やべえ
http://anond.hatelabo.jp/20070418095022 東大女子は確かに高学歴好きだよな・・・ 知り合いの東大女子(理系)も、法政の彼氏と付き合ってたけど やっぱり「もう少し高くないと・・・」っていってた。あと向こうが構えるってか劣等感持つので めんどくさいと。そういうことを考えないために東大がいいんだといってたよ。 で東大女と寿司屋の話なんだけど、これ東大の人なら結構有名な話だから知ってると思うけど、 あるところに東大カップルがいて、なんか仲がよくないときに、 寿司職人(確か低学歴設定だと思った)が「バカやロー俺の言うこと聞けばいいんだよ」みたいな ことを東大女に言って、それは理屈が通らないのだが、コロっといっちゃったという話。 んでそれを聞いて「ああ・・・」って思ったんだけど、 東大女なら、理屈を超えた説得力を持つ男がいいね。 職人系は体の理屈みたいなのがあるか
小さい頃の夢は確か漫画家だったけど、高校生ぐらいからの夢は「ハウスハズバンド」になることだった。 猛勉強して早稲田大学に入ったのも、良い大学に入ったらキャリア志向が強くて稼ぎが良くなりそうな女を捕まえられるだろうと思ったから。 学生時代はたくさんの子に目をつけて、エッチに持ち込んで恋人関係一歩手前な曖昧な関係の子を作って様子を見た。 大手広告代理店への就職が決まった子に絞り込んで、口説き落として卒業する前に同棲に持ち込んだ。 僕は彼女に打ち明けた。「結婚したら、ハウスハズバンドになりたい」と。彼女はそれを喜んで受け入れてくれた。 成功した。今までの人生でこれほど嬉しかった瞬間はないだろう。あとの人生、妻の収入で楽に暮らせるのが保証された。 事実、主婦業(この場合は主夫か)は楽だった。家事を一手に引き受けると言っても、住んでいるのは二人だけだから量はそんなに多くない。 大変(というかめんどく
あのころ、誰かと会おうと思ったら、その人が自宅にいる時を見計らって電話して待ち合わせるか、その人が来そうなところで待っているしかなかった。 だから、みんなの溜まり場に行けば、特定の誰かとはともかく他の誰かには会えたし、会いたい誰かが来るまではたまたまそこにいたその人と話すなり、それぞれ黙って他の事するなりして、その時間をなんとなく共有していれば良かった。 そうしてその場に溜まっている人たちと共有するものが、結局その中の特定の誰かとも共有しているものになり、それがだんだん増えていくことで特定の誰かとも他の人とも話が通じやすくなって、お互いがどんな人かも分かっていって、どんどんなじんだ場所になっていく。 そういう形の居心地の良さがとても性に合っていた私はやがて「いつ行っても居る人」になって、本来ならとうにそこを去らなければいけない時期が来てもそこに居続けて、新たに入って来る人とも可能な限り時間
今日になってやっと分かった。 丁度リアルタイムで一部の増田がやっている「女は得かどうか」話にも関連するけど。 大人になってもオタクを抜け出せない人間というのは、多かれ少なかれ中ニ病をいつまでも引きずっている人種だと思うのだけれど 男オタクと女オタクとでは、引きずる中ニ病の種類が違うんだよね。 男オタク(*主に萌えオタを想定)が引きずりがちな中ニ病妄想は「俺だけの理想のヒロイン妄想」だけれど 女オタク(*主に腐女子を想定)が引きずる中ニ病妄想は「私だけの理想の王子様妄想」ではない。 女オタクが引きずりがちなのは「ヒロインになんかなりたくない」「王子様なんていらない」妄想だ。 「私だけの理想の王子様妄想」を持つ女オタクも居るけれど、この妄想は成長すればやがて破られる。 理想の王子様なんてこの世に居ない事は思春期の少女でも知っている。 でも、「ヒロインになんかなりたくない妄想」はなかなか無くなら
男が女を殴るべきでない、のは何故か。 まず第一に思いつくのは、力では女は男に到底敵わないから。力勝負で男が女をねじ伏せるのは野生の証明であり、人間らしさを欠く。 「殴る方も、暴力のみで問題を解決しようと意図しているわけはない、反射的発作的感情的なものだ」という主張はある。まあ、成り立つ理屈ではある。だが、相手がそう捉えるかどうかは分からない。会話中にいきなり殴られたら、---会話はここで終了---という意図の表明だと思うのが自然だ。 女性が男性に暴力を振るう事が容認される事があるのは、暴力では女性は男性に敵わないからであろう。女性は結局、暴力で問題を解決する事ができない。故に、女性の暴力は、暴力による問題解決を意図していると見なされる事がなく、それゆえ正当化される。 女性は暴力を問題解決の手段としては使えない。だからこそ、女性は暴力を使うことを許される(男性と比べて相対的に)。 追記:ああ
乗用車は、なんであんなに無駄に大きいのだろう? 大きくてしっかりした自動車なら乗り心地が良く、軽くて小さいのより事故に遭ったときの防禦に有利でもありましょう。 しかし、本当に機能のみに拠ってその自動車が選ばれているのかというと、必ずしもそうではありません。 自動車を自我の比喩として受け止めている人々が少なからずいるのではないでしょうか。 自動車は、手足を通して、日々の生活の中で他ではなかなか得られないような力強い感覚を得ることができます。自分の手足の延長が自動車です。しかも車内は密閉されており、思いのままとまではいきませんが個人的で自由な空間です。より立派な車を求める気持ちの中には、自分を愛するように車を愛する気持ちが含まれているのかも知れません。車が大きければ自分も簡単に大きい人間になれるのです。これにやや社会化した視点が入ったものが、ステイタスシンボルとしての高級車です。 身勝手な運転
なんかモータリゼーションが僻地の交通網をダメにした論が流行っているようだけど(詳細はホッテントリを2・3日遡って見てね)、ほんとにそうなのかを考えてみることにするよ。 そもそも鉄道会社(関連のバス・タクシー事業とかも含むよ)はどういう収益モデルなのかをまず考えないといけないね。 大昔の鉄道会社はその時点で人が多数いる所同士を繋いだり、定期的に人が集まる場所に繋いだりして、輸送で儲けていたわけだけども、小林ナントカさんっていうすげー経営センスのある人が鉄道業界に現れたのね。この人の何が凄いかっていうと、人の存在→鉄道敷設だった業界を、鉄道敷設→人の存在に変えちゃったって所なんだね。もうちょっと詳しく言うと、まず人が住めそうだけどあんまり住んでいない一帯に鉄道引いちゃう、おまけに路線近辺の土地も安いんで買い漁っちゃう。んでその土地を住宅だとか商業施設だとかに開発して、売り払うなり賃貸するなりし
わたしはとてもあたたかい家庭で育った。 私は家族を愛している。 私は両親に感謝している。 私の両親は仲がいい。 私の父は私に似て(逆か)偏屈だし空っぽだし人の話は聞かないくせに自分の話は聞いてもらいたがる褒めてもらいたがりの構ってちゃんでおまけにのんべえである。 そんな父は職場でも敵を作りがちである。 私はそんな『私そっくり』な父にフクザツな感情を抱かないでもないのだが、母はそんな父を愛しているようだった。 『生まれ変わっても結婚する』とかいうような事をこの前も(冗談めかして、ではあるが)言っていた。 ふたりの距離感はとても絶妙な気がする。 付かず、 離れず。 正直うらやましい。 私の母は愛にあふれた女性である。 私や父や姉だけでなく、私の友達にも、分け隔てなく接してくれる。 私が友人や彼女を連れてくると(私がちょっと恥ずかしくなるくらい)すごい勢いで喜んでおもてなしをする。 私はそういう
結婚して一年半、妻が妊娠した。今までどうしても子供を作る気にはなれなかったけど、不思議な使命感のようなものに動かされて子供を作ってしまった。 おそらく順調に事が進めば今年の終わりには私は一児の父親になる。しかしその姿が全く想像できない。 自分は果たして子供を育てることができるのだろうか。仕事ではそれなりに成果をあげてきたし、これからも頑張れる自身はあるけど、子育ての自信は全くない。はっきり言って子供は全く好きじゃないけど、自分の子供は好きになれるのだろうか。 不安と心配ばかりが先行してしまって、どうしていいのか分からないのが正直なところだ。子供が出来たら喜ぶ人の気持ちは分からなくもないけれど、私はとても喜べない。 青年が不安を抱えて大人になるように、学生が心配しながら社会人になるように、これもまた通らなければならない道なのだろうか。あまりにも責任が重大すぎて、どう消化していいのか見当がつか
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