2010年12月27日放送の「伊集院光 深夜の馬鹿力」にて、NintendoDSのゲームソフト・『二ノ国 漆黒の魔導士』の感想について語っていた。 「年末それなりに、というくらい忙しいんですよ。雑誌の掲載文に関しては、お正月の分を前倒しで書く、みたいになってるんです。でも、僕はいつも締め切りを遅らせてばかりいるから、今がいつの分を書いているのかよく分かってないので、それほど問題は無いんです」 「いつ掲載されるのを理解して書いてないから、『今、お正月かな?違うかな…実際は何月何日なんですけどね』って元も子もないことを迷ったときは書いちゃえば良いなって思ってるんですけど。だけど、今回に関しては、ちょっと痛いなって思ったことがあって」 「ファミ通の連載も、結構前倒しで書くんですよ。特に、暮れのクリスマスシーズンとかは誌面厚くなったりしますから、より一枚一枚、ホチキスを留めているオジサンとかが労力
2010年12月30日放送の「おぎやはぎのメガネびいき」にて、2010年度のM-1について語られていた。 矢作「賛否両論だろうね、今回。あれ、難しいんだろうね。審査員って。『コレを漫才と見て良いんだろうか』ってこともあるんだよね」 小木「そっちの(コントとしての)評価というかね」 矢作「M-1が始まって、そこで既に言われてたことだけど、『今日の出来が全てだ』っていうね。今までどんなにウケていても、それは関係無い。今回、どれだけウケていたかが全てってことだよね」 小木「うん」 矢作「そうなると、スリムクラブが優勝なんだろうね。本来は。一番ウケてたからね。一番ハマってたってことでいえば。次はスベるかもしれないけど」 小木「そうだね」 矢作「だけど、漫才じゃないんじゃないかってことはあるんだよね。コントなんじゃないかと。ジャルジャルとかは言われてたね。そうなると、漫才って難しいんだよね。漫才コン
不可能性の時代 (岩波新書) 作者: 大澤真幸出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2008/04/22メディア: 新書購入: 14人 クリック: 179回この商品を含むブログ (162件) を見る 大澤真幸『不可能性の時代』を読み返していた。つらつらとメモ程度に。 不可能性―現実と反現実の乖離 東浩紀や木原善彦が、大澤の(元は見田宗介の)命名法を援用して「理想の時代」「虚構の時代」に続く現代を「動物の時代」「現実の時代」と名づけていた。だがそもそもこの見田―大澤の「〜の時代」という命名法は「現実」の対義語としてどのような言葉が参照されているか、という考察に基づいているものであり、その考察を省略した命名法はオリジナルの意図には反するものである。(東については大澤との対談で直接指摘されていたようだ。) 大澤は、隠された「現実」を捜し求める「現実への逃避」と、ジジェクのいう「カフェイン抜きのコ
ちょっと今さら感が出てきたのは重々承知で、今年のM-1グランプリの感想を書く。漫才は日ごろほとんど見ず、この1年間は家にテレビすらない。けれどM-1だけは初回分から繰り返し見ている、という程度の人間の雑感。 一昨日のエントリーにも書いたけれど、M-1は「コンテスト」だ。つまり(明文化されてはいないものの)何らかの評価基準が存在していて、それをいかにみごとに消化したかで勝敗が決まる。ボケの難度・手数、ツッコミのバリエーション、声の張り方、4分間での緩急などさまざまな項目が用意されていて、基本的にはそれらを一つ満たすごとに「笑い」が高まるというシステム。今年の何がすごいって、この「M-1はコンテストである」という文脈を、つまり笑いの陰には様々な審査基準が存在するのだし審査員はただ笑っているのではなくそれらを逐一「チェック」しているのだ。ということを観客が見事なまでに熟知して視聴に臨んだことだろ
ウーマンラッシュアワーの漫才はウケる。THE MANZAIでは予選で敗退したがウケの量で言ったら相当な上位であったであろう。また、島田紳助がその漫才を評価したりと、非常に評価が高い。 その理由は例えば「両方がボケとなっている」という構造であったり、バイトリーダー等のあるあるの着眼点であったりと言われているが、今回はもう少し違う点から考えてみる。 立川談志や、プレゼンを得意とする経営者などがよく使用する手法として「わざと小さい声で話す」というものがある。わざと小さい声で話すことによって、集中しなくては聞き取れない状況にする。そのため、嫌でも集中してしまう。集中すればするほど相手は大きく感情移入することができるし、深い意味も伝わるようになる。集中を向けた対象が発した意味について、深く考えるようになるからだ。 エンターテイメントというものは相手の集中度が非常に重要で、例えば、ストーリーに解き明か
有吉弘行は、以前から直接的・間接的に、吉本興業に所属する芸人に対して批判的な言動を繰り返してきた。 「お笑い学校でシステムだけ学んだようなやつら」「松本さんの名前を利用して気を引こうとしているやつら」という具合である。 もちろんガチで批判したら、ただの自殺行為になってしまう。有吉は、笑いというベールに包みつつ、「世間がイメージしているであろうこと」を、戦略として口にしていただけのことである(たぶん)。 しかし、先日ケンドーコバヤシのラジオ番組にゲスト出演した有吉は、吉本芸人への思いを、いつも以上に踏み込んで発言していた。 前回のエントリーに引き続き、そのあたりの「危険」なトークを書き起こしてみたい。 (最初に謝っとくと、無駄に長いです。あと、もし俺の解説がウザかったら読み飛ばしてください) なお、前回のエントリーはこちら↓です。 参考: 有吉弘行のケンドーコバヤシ論 その直前まで有吉にさん
暴走芸人として名を馳せている鳥居みゆきだが、実は精巧な言葉選びを得意としていたり、独特な世界観のコントを作り上げる名手だということは、インターネットでお笑いブログを読むくらいの人ならば知っていることだろう。しかし、バラエティのトークなどでは、鳥居みゆきが発した言葉の「笑いのポイント」とずれたところで笑いになっている場面が少なくない。すなわち、鳥居みゆきは完全に活かされているとは言えないのだ*1。 ここで、鳥居みゆきに最も相性の良い芸人は誰だろう? ということについて考えていきたいと思う。 鳥居みゆきファンの間でまず候補に挙がるのがカンニング竹山、飛石連休藤井だろう。両名はGyaoなどでの競演も多く、そもそも「鳥居みゆき」という人間についてとても詳しく知っている。そのため、鳥居みゆきが意図する「笑いのポイント」からずれることが他の芸人と比べて少ない。 が、まず竹山はNGだ。彼は鳥居みゆきのボ
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