すごいな、湯澤規子『胃袋の近代』。共和国から出してくれといわれて広告も何度かうったのに一方的に取り下げられ、せめてわたしが付けた『胃袋の近代』というタイトルは変えてくれと言ったら「著作権上問題ありませんよね」と返事がきて、仔細をオープンにしたら名誉毀損で訴えると。これが研究者か。
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@Masuda_Slovakia 原稿いただいてからなかなか本にできなかったこちらの問題もあるのですが、しかし、という……
古川 ロッパ(ふるかわ ろっぱ、古川 緑波とも、1903年(明治36年)8月13日[1] - 1961年(昭和36年) 1月16日)は、1930年代の日本の代表的コメディアン。本名は古川 郁郎(ふるかわ いくろう)[1]。 編集者、エッセイストとしても活動した。 生涯[編集] 生い立ち[編集] 古川郁郎は東京帝国大学総長を務めた加藤弘之男爵の長男である加藤照麿男爵の六男として東京市麹町区に生まれた[1]。嫡男以外は養子に出すという家訓により、生後間もなく義理の叔父(父の妹婿)で満鉄役員の古川武太郎(元陸軍中将の古川宣誉の長男)の養子となる[2]。幼少期より文才に優れ、のちに芸名として用いた「緑波」の号は尋常小学校3年生の頃、童話作家の巖谷小波にちなんで自らつけた筆名である。始めは読み方を「リョクハ」としたが[3]、芸能界入り後は舞台活動では「ロッパ」、文筆活動では「緑波」と使い分けた[4]
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