ブックマーク / tsiraisi.hatenablog.com (8)

  • カール・マリア・フォン・ウェーバーとチャイコフスキー - 仕事の日記

    大阪フィルの定期でフェドセーエフがウェーバーの「オベロン」序曲、交響曲第1番とチャイコフスキーの交響曲第5番を演奏した。(私は都合で、初日に前半のウェーバーだけ聴いた。) ウェーバーの交響曲は、現在進行中の全集で既に新しい譜面が出ているはずだが、今回は従来の版を使ったのだろうか? 今年の定期の曲目解説の執筆者(敢えて氏名は書かない)が1990年代以後のウェーバー研究の動向を知らないのは、まあ、勉強しないおじいちゃんだから当然かなあ、とは思うが、私にとっては、この作品がマンハイムのフォーグラーの若きウェーバーへの従来考えられていた以上に広汎な影響を考える鍵だと知ったことが、ドイツの19世紀初頭の「非ベートーヴェン的」で、だからといって「シューベルト的引きこもり」に沈んでいくのではない宮廷音楽家たちの音楽の系譜(小岩信治が『ピアノ協奏曲の誕生』で「ポスト・ベートーヴェン」と形容したような)に目

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    batti-8 2017/05/15
  • ドラクエの怪 - 仕事の日記

    佐村河内/新垣が騒ぎになったときに、吉松隆が「シリアスな芸術鑑賞とは別に、オーケストラ・サウンドの快楽に浸りたい欲望が広く薄く存在するのだ」と言って擁護していたが、芸術鑑賞ではないオーケストラ・コンサートの可能性に関心がある人は、ドラクエ・コンサートを調べるといいんじゃないかと思う。今ではものすごく大きな市場に育っていて、東条碩夫を焼け太らせた「地域創生」型オーケストラ運動の後期高齢者的徒労感とはまったく別の景色が、そこには白々と広がっているようです。 東条碩夫が岸田繁の交響曲に「おととい来やがれ」的な罵声を浴びせるのは兆候的で、自分が(自分も)ディレッタントなものだから、痛いところを突いてくる成り上がり現象に過剰反応しているわけだが、彼はドラクエには(行くことがあるかどうかはわからないが)たぶん好意的だろう。各地のオーケストラがドラクエに手を染めるのは、そのあたりの機微を敏感に察知してい

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    batti-8 2017/04/24
  • 名前を売りたい人々 - 仕事の日記

    十数年前の大河ドラマ「新撰組!」に岩倉具視が伊東甲子太郎の名前を覚えようとせずに侮辱する場面があったが、今思えば、あれは京のお公家さんの陰険さの表現というより、三谷幸喜がどこかで経験したのかもしれない現代の芸能界の風景だったのでしょう。 * 宣伝・広報とはタレントの「名前を売る」ことである、という面がおそらくある(あった)。売名行為の語があるように、悪評であろうと名前が広まればこっちのものだ、という考え方が、今では「昭和的」と懐古的に語られてしまうかもしれない芸能界・マスコミ・ワイドショウの日常だったような記憶がかすかにある。 テレヴィジョンという最先端のメディア・技術、マス・コミュニケーションという時代の花形である舞台で、実に野蛮なことが繰り返されていた時代があったわけである。 * そして次第に薄れつつある記憶をたどると、そのような野蛮な場所を物語風に描写するバックステージものでは、タレ

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    batti-8 2017/04/11
  • HIPな演奏、ちぐはぐな運営 - 仕事の日記

    今年は桜が満開の週末が雨になってしまいましたね。 こういう結果になると、センチュリー響のハイドンが一番誠実な取り組みだった、と判定せざるを得ないかもしれない。 巨大な空間に大観衆を集めるプロムスで古楽系団体が拍手喝采を浴びる(YouTubeでそういう映像がいくつか見つかる)のに似た上手なプレゼンテーションでしたね。音友あたりのグラビアで華やかに報じて欲しいものだ。(ちゃんとカメラマンを派遣していたのだろうか?) * 18世紀古典派音楽の in tempo をメトロノーム的な等速運動と解釈して、すべてを等速運動的なパルスにあてはめようとすると、ハイドンの交響曲は、おそらく18世紀には全く想定されていなかったであろう種類の超絶的に難しい音楽になる。こういう演奏スタイルは、20世紀前半の新即物主義のテンポ理解の延長上に「古楽」や「ピリオド演奏」を組み立ててしまった一昔前の Historical

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    batti-8 2017/04/09
  • 同好会はなぜ対外的に成果披露するのか? - 仕事の日記

    学校のクラブ活動って、たいがいそうですよね。なぜなんでしょうね。自発的な無償の行為である、というのが同好会の同好会たる所以ではあるけれど、そのような無償の行為は、何者かの好意や善意の賜物であり、その感謝の念を表明したり、恩返しをする感覚ではないか、という気がしないでもない。 好意や善意を受け取りっぱなしで、遊ぶだけ遊んでそれでおしまい、という底の抜けた蕩尽に、おそらくヒトは耐えられないようにできているんだと思う。 たしか贈与論ってそういう話ですよね。 遊びが幸福への道なのか、それとも、退廃への道なのか、このあたりが分岐点なのかもしれない。

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    batti-8 2017/03/29
  • 音楽の出演料と著作権 - 仕事の日記

    「作曲者」に認定されないミュージシャンは著作権料の恩恵にあずかることができないから不平等だ、という議論をポピュラー音楽学者が仕掛けているようだが、プレイヤーは出演するごとにギャラが入るんじゃないの? 楽譜を準備した者は、プレイヤーと違って演奏ごとにギャラが入るわけではなく、これでは生活が成り立たないから楽譜や録音に対する制作者としての権利を認定しよう、というのが著作権だったはずで、その基を故意に隠して議論するのは詭弁だと思う。 著作権を大陸観念論の産物だと主張するのは、20世紀のイデオロギー批判の悪しきプロパガンダだろう。音楽著作権の確立に尽力した音楽家たちは、ロッシーニとマイヤベーアにせよヴェルディにせよリヒャルト・シュトラウスにせよ、概して実務的で実業家肌の人たちです。(日の芸術と著作権に関して顔をさらして発言してきた三田誠広や松零士や小林亜星もそうだと思う。) 二流とはいえ学者

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    batti-8 2017/03/03
  • タッチパネルと単純作業 - 仕事の日記

    ポケモンGOをdisったり、ハマった人が自嘲するときには「膨大な単純作業」というワードが使われるようだ。文字の読み書きもまた、スマホでは「膨大な単純作業」に還元されるので、スマホをいつどこでどのように使うか、という話に帰着する気がします。スマホは、音声の出入力を利用しないとなると、インターフェースがタッチパネルしかないのだから、何をやるにしても「膨大な単純作業」になる。そういう器械ですよね。 SNSに熱心な人もまた、タッチパネルを用いた文字の読み書きという「膨大な単純作業」をよくあれだけ続けるよね、という風に言われてしかるべきだろう、ということかと思います。 (140文字をポチポチ打つならともかく、スマホで長文となると、それはポッポマラソンかもしれない。) ところで、「膨大」の「膨」の字を何も見ずに手書きできる人は、どれくらいいるのだろう? * そういえば、私がガラケーからスマホに変えたの

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    batti-8 2016/12/18
  • 武満徹は西洋人をマネして背伸びする - 仕事の日記

    武満徹について調べる必要があり、技法や名声は雲泥の差ではありますけれども、無名時代の右往左往する感じがどこかしら大栗裕に似ているなあ、と考えているうちに、ふと思いついたことを書いてみます。 武満徹の音楽 作者: ピーターバート,小野光子出版社/メーカー: 音楽之友社発売日: 2006/01/01メディア: 単行購入: 1人 クリック: 3回この商品を含むブログ (10件) を見る 「極東の島国のアンチャンが、背の高い西洋人のマネをして、ひょいと背伸びをしてみた。さすがに照れくさいから、あれこれ「藝術」にふさわしく見えるような細工・演出を施してみた。長年細工・演出を続けるうちに、その技巧は精緻で堂に入ったものになる。そして、この「東アジアの小男が背伸びする身振り」が、海外ではそっくりそのまま、東洋の神秘と評価されるようになった。それがタケミツ。」 ……ということで、どうでしょう? - 武満

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    batti-8 2016/12/07
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