そろそろ全国のSF研に新入生が入るころだろうし、思い出話として語ってもいいかなと思ってこのエントリを書いた。 そもそものはじまりとして、高校3年の春休みにスタージョンの「海を失った男」を読んでSFの凄さに感銘を受け、そこからSF棚に平積みされていた伊藤計劃、円城塔、飛浩隆といった面々を消化し、いつの間にやらSF研のドアを叩いていたという、そういう人間である。 なお、見事に青背ばかりが並ぶわけだが、実は20世紀SFをオススメされたり、SFマガジン2000年2月号をオススメされたりすることも当然あった、と書いておく。ただ、残念なことに、アンソロはSF入門に極めて便利な一方で、僕自身がオススメされた時の記憶があまり残っていないので今回は避けることにした。 ※追記 これだけは書いておかなければ誤解を生むと思いましたので書きます。今の京大SF研と違って教養主義的である、というコメントがありましたが、
「動作には文脈があって、身体というものは、頭から、あるいは環境から入力された動作文脈に対して予測された次の動作を返す、 一種の推測変換エンジンである」と仮定する。 生まれたばかりの生き物は、恐らくは空っぽのデータベースしか持っていない。人間の子供は、だから手足をばたばたと動かして、 試行錯誤の結果として、はいはいとか、歩行といった動作を獲得していく。この獲得は、動作の拡張というよりも、むしろ 無駄な動作をそぎ落とすことによって行われる 様々な動作には、それに意味があったのかどうか、意識による重み付けが行われる。どこかにたぶん、状況ごとに推測されるべき、 「次の動作」のデータベースみたいなものがあって、意志だとか、外界からの環境刺激がそこに入力されると、 身体は、それまでの動作文脈から推測された、次に来るべき動作を返す。「推測」という工程を入れることで、動作が先、 意識はそれを追認するという
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