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死と教育に関するbeth321のブックマーク (3)

  • こりゃPTSDになったかもなあ

    少し前に曾祖母が亡くなった。享年102歳。俺を含む親類縁者に見守られ、自宅の寝室で眠るように逝った。今時珍しい大往生だったと言えるだろう。通夜、葬儀と滞りなく終わったが、問題はその後だった。火葬場での出来事だ。 祖母のお骨を骨壺に収める際、何を思ったが従姉(お袋の姉の娘)が娘(小学一年生・俺からみれば「従姪」)をその場に立ち会わせたのだ。 俺と両親は「やめておいた方がいい」と事前に何度も告げたのだが、従姉夫婦はいっこうに聞き入れず、これから何が始まるのかもよく分かっていないであろう我が娘に「大丈夫だよね?」と尋ね、娘もそれに頷くばかりで結局押し切られてしまった。 何せ直前まで高温に晒されていた物体である。お骨のみならずそれを乗せている台もかろうじて触れられる程度に熱を持っており、それほど広くない締め切った部屋には独特の熱気が充満している。そして部屋の中央には紛れもない物の人骨。いくらなん

    こりゃPTSDになったかもなあ
  • わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる: 子どもに死を教える三冊

    良い機会があった。遠い親戚が亡くなったのだ。 「良い」なんて不謹慎だけど、このご時世に大往生だから感謝しないと。家族総出で葬式に行く。テレビなどに任せず死の教育をやってきたつもりだが、百聞一見、葬式こそ最高の現場だ。 子どもに伝えたいたった一つのことは、以下に尽きる。 あんたまだ生きてるでしょ だから、しっかり生きて、それから死になさい しっかり生きてないと、ちゃんと死ぬことすらままならない…このメッセージをそのまま言っても分からない。まず、自分の「生」を大切にさせる。できるようになれば、家族の、ひいては他人の「生」へも目配りができるようになる。 自己であれ他者であれ、「生」を大切にできるようになれば、それを支える「生活」も大切にするだろうし、「生」を生み出す「性」も同様に扱えるようになる(はずだ)。 生の反対は死でない。しかし、死について考えることは生きる質(文字通りの "qualit

    わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる: 子どもに死を教える三冊
  • そろそろ死にたくなってきた人に捧げる雑文 - やねうらおブログ(移転しました)

    昨年、小学校で教える「掛け算の順序問題」がインターネットで非常に話題になった。*1 *2 簡単に言えば、小学校で「リンゴが3個置かれた皿が5枚ある。リンゴは全部で何個か」という問題が出題されて、「式: 5×3 = 15 答:15個」と書いたら先生にバツをされた、先生の用意していた正解は「式: 3×5 = 15 答:15個」だというものだ。 ぶっちゃけ、その教師は頭がおかしいと私は思うのだけど、まあ、その教師にはその教師なりの主張があって、この話は突き詰めていくと「掛け算の交換則が成り立つことを証明していないときに交換則を使っている」(それが解答として許されるのか)ということに行き着く。つまり、「まだ授業で習っていない事項を使ってはならない」という考えかたが根底にあることがわかる。 最近では、「習っていない漢字は使ってはならない。(ひらがなで書かなくてはならない。自分の名前さえも) 」だとか

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