一流の選手は「変化を厭わない」 まあ、営業トークはさておきまして、皆さん、新しい事を始めるのはリスキーだと思っていませんか?今までやってきたやり方が、いつまでも正しいと。 13年間のプロ野球選手生活で、たくさんの選手と出会ってきましたが、「これは危ないな・・・」という考え方が一つありました。それは「変化を嫌う」というものです。 自分自身にも常々言い聞かせていた事です。 日本に約800人いるプロ野球選手のうち、超一流、一流は全体の1割にも満たないと思っていました。 何を持って一流といえるのか、数字なのか、プレーのインパクトなのか、数字だとすれば長く活躍したらいいのか?短期でも良いパフォーマンスを出すことができた選手を一流とするか?基準が引けないので、みなさんの想像する一流で構いません。私もぼんやりです。 ここに、残りの選手を二流であるとします。もちろん去年までの私も含めて。 彼らが、よく「コ
期間限定サイト「村上さんのところ」をご覧いただきまして、誠にありがとうございます。 連日たくさんのアクセスをいただきました当サイトですが、2015年5月13日をもって、公開を終了させていただきました。当主の村上春樹さんは、しばしの休憩をとったあと、本来の小説のお仕事に戻っていらっしゃいます(当主からの最後の挨拶はこちら)。 1月15日のオープン以来、119日間という限られた期間でしたが、読者のみなさまと村上さんとの交流はたいへん面白く、そして意義深いものとなりました。3万7465通のメールをお寄せいただいたみなさん、そして、最後までご愛読いただいたみなさんに、あらためて感謝を申し上げます。 なお、当サイト上での質問者のみなさまと村上さんとのやりとりは、編集の上、新潮社より出版されます。くわしくはこちらをご覧ください。 新潮社 チーム縁の下
ソフトバンクが異例のコーチ人事を検討していることが3日、分かった。DeNA1軍用具担当の入来祐作氏(42)を投手コーチとして招聘(しょうへい)する方針を固めた。 入来氏は昨年秋の奄美大島キャンプではウナギの捕獲で話題を集め、テレビCMにも出演した。現役時代は全力投球が持ち味で、性格も底抜けに明るい。選手と真摯(しんし)に向き合い、情熱的な指導が期待される。 工藤新監督を支える組閣は最終局面を迎え、外部からも実績と経験豊富な顔ぶれをリストアップ。1軍から3軍までの内部調整を慎重に進め、近日中に発表する見通しだ。
参加者とともにマシンを操る中日の山本昌投手(中央)。表情は真剣そのもの=2004年1月、愛知県美和町で 四十九歳でプロ野球最年長勝利記録を打ち立てた球界のレジェンド・中日ドラゴンズの山本昌投手は、ラジコン界でも伝説の存在だった-。山本さんと二十年以上交流のある、模型メーカー・タミヤ(静岡市駿河区)営業課の前住諭(まえずみさとし)さん(39)は「人柄の良いマサさんが趣味にしてくれているおかげで、ラジコンのイメージアップや普及にもつながり感謝している。記録達成を業界全体が祝っています」と喜ぶ。 山本さんがラジコンを始めたのは一九九四年ごろ。最初の一台は、イタリアのスーパーカーをモデルにしたタミヤの「ブラックカウンタック」だった。同じ趣味を持つ元中日の山崎武司さん(45)と共催大会「山山杯」を開くほど熱中し、腕前もプロ級。全日本選手権や山山杯で優勝経験のある前住さんも「集中力が高く、負けん気も強
トロントの「元気印」は健在だ。渡米3年目のブルージェイズ・川崎宗則内野手(33)は、6月17日にメジャー復帰。打率・289をマークするなど、好守好打で正二塁手の座を奪い、プレーオフ争いを繰り広げるチームに欠かせない存在となっている。明るいキャラクターで地元ファンへの人気も絶大。独占インタビューを通じてムネリン流の野球哲学に迫った。 ――前半戦終了時、ジョン・ギボンズ監督が「現在の正二塁手」と評価していた。昨季と立場が少し変わったのでは。 「一緒です。ずっと僕は試合には出ていたしベンチにも入っていたし、今までと何一つ変わらない。思い切って自分のプレーをするだけです」 ――日本と米国での一番大きな違いとは。 「英語をしゃべるのと日本語をしゃべること。これだけですよ。(野球は)みんな違う、違うと言うけど一緒。野球をうまくなりたいという野球小僧が、でっかくなってその軍団が集まっている。何一
高森勇旗(元横浜ベイスターズ)●文 text by Takamori Yuki小池義弘●写真 photo by Koike Yoshihiro サブ――楽天で「サブ」といえば、脇役のことではない。福山博之、通称サブ。中継ぎとして今季ここまで(7月16日現在)リーグ4位の38試合に登板し、防御率1.52と、最下位に沈む楽天の中で獅子奮迅の働きを見せ、今や楽天リリーフ陣の柱にもなっている存在だ。星野監督から「ウチで1番成長したピッチャー」と言わしめるほど絶大な信頼を受け、このたび監督推薦によるオールスターへの出場を勝ち取った。そんな福山がオールスター選出に対しての率直な思いを語ってくれた。 監督推薦でオールスターに選出された福山博之。 「プロ野球選手になることさえ『まさか』だったのに......。しかも、2年前に戦力外を受けたオレが、まさかオールスターにまで出られるなんて、本当にあり得ないと思
感動読み物この男がいたからダルビッシュ、田中はメジャー入りできた 伊良部秀輝 哀しき最速エースの肖像 後編 父との対面と、突然の別れ 田崎健太ノンフィクション作家 周囲と衝突を繰り返しながらも、念願のメジャーの地を踏んだ。移籍先は史上最強とうたわれたヤンキース。「父を探す」という中学時代からの目標も3年目で達成。だがそれが最速王の絶頂だった。 果たされなかった約束 北緯60度に位置するアンカレッジは9月初旬でも、すでに冬の匂いがしていた。 スティーブ・トンプソンはぼくが泊まっているホテルまで来てくれることになった。ロビーで待っていると、冬服を着込んだ客がぽつりぽつり現れた。何人目だったろうか、足に鉛をつけたようにゆっくりと歩く、白髪の老人が入ってきた。目が合った瞬間、この人が伊良部秀輝の父親だと思った。かすかに伊良部の面影があったのだ。 トンプソンは1935年4月16日、シカゴで生まれてい
川崎宗則が昨年の7月11日にヒーローインタビューで発した「See you tomorrow」という言葉は、あまりにキュートだと世界中にファンを生んだ。 「メジャーで最も愛される日本人選手」こと、川崎宗則選手。 苦労は表に出さず、苦しい時こそ前にでる。 そんな、野球小僧の人生論が本になりました。 3月26日発売の『逆境を笑え 野球小僧の壁に立ち向かう方法』より、 Number Webでは特別に、イチロー選手との出会いの項を公開します。 小学生から中学2年まで、おれは右バッターだった。 右利きだったし、右で打つのが当たり前だと思ってたからね。小学生のときは、ランニングホームランも打ったし、ヒットもけっこう打ててたと思う。 それが中学に入ったら、先輩たちより打球が遠くへ飛ばないことに気づいた。みんな体が大きいのに、おれは細くて、背もそんなに高くなかったから。中学1年のときは、バットが重くて、振れ
2013年は12月31日までトレーニングを続け、年が明けると1月2日にはナゴヤ球場を訪れキャッチボールで汗を流した。 プロ31年目のシーズンを迎える48歳の大ベテランは、とにかく休み知らず、なのである。 「だってさ、家にいたって暇なんだもん」 山本昌は、決まってそう言う。 盟友・山崎武司は現役時代、「俺は暇でも練習しない!」と豪快に言ってのけたが、むしろ、その考え方こそプロ野球選手の大半の心情を代弁している、と言えるだろう。休める時はしっかり休む。約10カ月。多ければポストシーズンを含め144試合以上も戦い抜かなければならない過酷さを鑑みれば、戦士にも休息は必要なのだ。 ただ、山本昌にしてみれば、それも単なる固定観念に過ぎない。 トレーニングを続けるわけ。それはいたってシンプルな心構えがあってこそ。山本昌は「暇」の真意について、このように説明してくれたことがあった。 40歳までは「休むこと
プロ野球の黎明期、数々の伝説を作り上げた名選手たちが、もしも現代のグラウンドに降り立てばどんな成績を収めるか。今の球界への叱咤激励を込めつつ、“レジェンド”が大胆な“自己査定”をしてくれた。ここでは金田正一氏(80)の意見を聞こう。金田氏は1950年国鉄に入団。通算400勝、365完投、4490奪三振など、数々の不滅の大記録を打ち立てた。 * * * ワシが今プレーをしていたとしても、メジャーではやらなかっただろうな。日本の野球を守り、メジャーと対等に戦えるリーグに育てたい。まずはそのための努力をしていたと思うよ。 それから先にいっておくが、現役時代のワシをダルビッシュ有や田中将大と比べてもらいたくはないね。失礼だ。まず球が違うよ。私の球こそがプロフェッショナルです。 メジャーの試合を見ていても、縦の変化を使うのは日本人投手くらいだろう。あれで誤魔化しているだけ。田中がメジャーでど
谷上史朗●文 text by Tanigami Shiro日刊スポーツ●写真 photo by Nikkan sports プロ野球「行く人、来る人」2013 今年もドラフトで育成枠を含めると89人の選手がプロからの指名を受けた。その一方で、かつて「怪物」と呼ばれた男がひっそりユニフォームを脱いだ。8年前の今頃はマスコミの注目を一身に浴び、将来の巨人のエースと嘱望されていた辻内崇伸だ。大阪桐蔭高校時代の3年夏の甲子園で、左腕最速となる156キロを記録。2回戦の藤代(茨城)戦では当時大会タイ記録となる19奪三振をマークした。しかし、高校野球史にその名を刻んだ剛腕のプロ生活は度重なる故障との戦いだった。結局、1度も公式戦の一軍マウンドに上がることなく26歳を前にした今秋、8年間の現役生活にピリオドが打たれた。 一度も一軍のマウンドを経験することなく、8年間のプロ野球生活に別れを告げた辻内崇伸。
前田智徳、涙と笑いの引退セレモニーまとめ 「カープで、一途に野球ができたことを誇りに思います」 [ 2013年10月03日 22:23 ] コメント(132) | 広島 | Tweet 8回裏、代打で現役最後の打席へ 743:風吹けば名無し:2013/10/03(木) 20:46:08.85 ID:4tR9brVi 見納めや・・・ 746:風吹けば名無し:2013/10/03(木) 20:46:10.01 ID:DKzK/6HP 前田あああああああああああああああああ 754:風吹けば名無し:2013/10/03(木) 20:46:14.62 ID:KdkSm1Up 前田あああああああああああああああああああああああああああ 760:風吹けば名無し:2013/10/03(木) 20:46:19.34 ID:oZgWw6pR 前田あああああああああああああああああああああああああああああああ
西武石井一久投手(40)が24日、今季限りでの現役引退を表明した。 埼玉・所沢の球団事務所で会見。決断について「昨年から今年またぐくらいには決意してました。時期的にそろそろかなというのがあって。今でも勝ちたいと思う気持ちもあるし、やれると思う気持ちもあるし。そこに向かうまでの準備に疲れたかなと思います。長かったなと思います。それなりに充実した野球人生だったなと。満足して次は人生のセカンドステージを迎えると思います」といつもと変わらない穏やかさで話した。 すでに第二の人生を踏み出していることも明かした。先日、吉本興業の試験を受け、契約社員として合格したばかりで「来年の4月には新人研修を受けます。僕的には広報部に入りたい」と決意表明。湿っぽさはなく、石井らしい笑いに包まれた引退会見となった。
川崎市立高津高校定時制4年生で、83歳の上中別府(かみなかべっぷ)チエさん(川崎市宮前区有馬)が、23日に相模原市で行われる高校定時制通信制軟式野球神奈川県大会の決勝戦にベンチ入りする。 12番の背番号を付けて伝令で登場する予定で「全力で支える」と意気込む。好きな言葉は生涯現役。「家で縮こまっていてもしょうがない。何でも挑戦してみたい」と元気いっぱいだ。 鹿児島県曽於(そお)市生まれで、地元の尋常高等小学校を卒業した。2人の子供を授かり、孫は5人、ひ孫が4人いる。小学校時代は、空襲に備えたバケツリレーの練習やなぎなたの訓練、農作業などで満足に勉強する時間がなかったという上中別府さん。76歳の時、英語を勉強したくなった。宮前区役所に相談したところ、川崎市立西中原中学校の夜間学級を勧められ、3年間通った。 もっと勉強したいと、2010年4月に高校へ入学。学校で習ったことは必ず復習する。「若い人
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