昨日、1月30日に行われた靭(うつぼ)公園での行政代執行に関することを書いた。 あの日の抵抗については、自分がほとんど参加しなかったということもあり、客観的なコメントはしづらい。 それを目にするなかで自分が実感した一番大きな事柄が、「共感」というものに関係していることは、昨日書いた。「共感」のある人間と、「共感」のない人間がいる、などという二分法的なことではなく、同じ人間であっても他者との関係において「共感」の生じる回路に入る場合と、そこから外れる場合があり、ある種の社会システム(実にさまざまだろう)には、人をそこから外す働きがある、ということだと思う。 あの時、ぼく自身はあるところで、そこから外れてしまっていたように思う。 「共感」というものを、たとえば同胞愛のような実体的なものにとったとき、そこには「他者の排除」(敵の創出)という裏面が含まれるだろうことは見やすい。 ハンナ・アーレント