「地図は悪夢を知っていた」 そんな衝撃的な見出しが、新聞の一面に載ったのは今から61年前の昭和34年、中部日本新聞(現:中日新聞)日曜版でした。 前の月の「伊勢湾台風」の浸水被害の教訓を伝えるものです。 記録的な高潮や暴風で死者・行方不明者が5000人超、浸水した住宅は30万棟にのぼった伊勢湾台風。 記事は、台風の3年前、地形をもとに浸水の危険性の高さを示した地図と、実際の浸水被害にあった地域がほとんど一致していたことを指摘していました。
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ロシアやイランなどカスピ海沿岸5カ国は12日、カザフスタン西部のアクタウで首脳会議を開き、「カスピ海の法的地位に関する協定」に署名した。カスピ海は地下資源に恵まれ、領有権などをめぐって20年以上にわたり協議が難航していた。決着の背景には、最近のイランと米国との関係悪化もあるとみられる。 会議には、ロシアのプーチン大統領やイランのロハニ大統領のほか、カザフスタン、アゼルバイジャン、トルクメニスタンの各首脳が出席。各国の沿岸15カイリ(約28キロ)を領海と定め、同25カイリを排他的な漁業水域と定めたほか、第三国の軍の活動を禁止した。地下資源の分割については隣国との協議で解決を目指すとしている。 会議後の記者会見で、プーチン氏は「合意は価値あるものだ」と強調した。イランメディアによると、ロハニ師も「イランは貿易促進のために重要な役割を担う」と語った。 タス通信などによると、協議は1996年に始ま
14世紀中ごろの室町時代(南北朝時代)に描かれたとみられる、本州から九州のほぼ全域が記された日本地図がみつかった。広島県福山市の県立歴史博物館が15日発表した。現存する最古の日本地図は京都・仁和寺(にんなじ)所蔵の「日本図」(1305年)とされるが、西日本が欠けており、全体が残った地図では最古級。日本地図の変遷をたどるうえで重要な発見と注目される。 博物館によれば、確認されたのは「日本扶桑(ふそう)国之図」(縦122センチ、横57センチ)。広島出身の収集家から博物館に寄託された。国内68カ国が描かれ、地図の欄外には国名と郡名、人口や田畑の面積、寺の数なども記された。近畿を中心に九州を上に描き、京都から各地へ街道が伸びている。当時は「琉球(りゅうきゅう)」と呼ばれ、日本と中国などとの中継ぎ貿易で栄えた沖縄も記されている。沖縄を「龍及(りゅうきゅう)国」と表現する鎌倉時代の地図の特徴と、港町の
私たちが日常的によく目にする「メルカトル図法」の世界地図は、緯度が高くなるほど大陸の面積が拡大され、形がゆがむ欠点があります。できるだけ正しく、ゆがみの少ない世界地図ができないか。日本人が新たに考案した世界地図がことし、優れたデザインを表彰する「グッドデザイン賞」の大賞に選ばれました。正確な地球の全体像を示すだけでなく、世界の見方が多様にあることを示して、高く評価されました。 「authalic(面積が等しい)」と「graph(図)」を合わせて「オーサグラフ」と名付けました。 鳴川さんは、もともと建築家で、自分が設計した建物を、3次元の立体から2次元の平面に写し込む投影法に興味を持ち、研究を重ねてきました。その過程で、球体である地球を、どのようにしたら正確に平面に表現できるのかを考え始めたということです。 新しい世界地図を考案したのは慶應義塾大学政策・メディア研究科の鳴川肇准教授です。 「
多賀城市南宮の内館館跡(うちだてたてあと)で、室町時代後期の堀に囲まれた屋敷跡が見つかった。発見の契機となったのが航空写真の分析で見つかった農地のクロップ(農作物)マーク。埋没している遺構の影響で農作物の成育に違いが出ており、その場所を調べるとマーク通りに堀の跡が見つかった。市教委は4日午後1時半から現地説明会を開く。 クロップマークは、JR東北線陸前山王駅から北西約1.5キロの水田で確認された。航空写真では、幅2~3メートルの二重の堀に囲まれた隣接する2区画の形がうっすらと浮き上がって見えた。 堀の内側にあった井戸跡などからは、漆器のわん、すり鉢型の土器、木製のげた、ひしゃくなどの生活用品が出土。柱を立てた穴も数カ所確認され、有力者の屋敷跡と推定された。 多賀城市西部は、鎌倉時代の陸奥国府留守所(るすどころ)の長官の子孫で、代々この地を治めた「留守氏」の屋敷跡がある。内館館跡は、室
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