ブックマーク / d.hatena.ne.jp/naokimed (5)

  •  ポピュラー音楽の社会学 (備忘録) - 社会学徒の研究(?)日誌

    「現代アートの社会学」に関心を持っている旨、このブログでも述べてきましたが、現代アートの作品には音楽そのものやこれに関係するものが多く含まれます。音楽といっても、現代アートにおいてはポピュラー音楽との関わり方は限定的で選択的です。一方で、ポピュラー音楽こそ字義のとおり、もっともポピュラーな類の音楽であるわけです。ここに、ポピュラー音楽が社会学の研究対象としての意義があります。 どういうことでしょうか。つまり、ポピュラー音楽が広く社会的に受容されているということは、それを通じて社会現象を分析することが可能になります。そして、ポピュラー音楽が排除されたり相対化されている領域を分析することで、その領域の特性を知る手がかりにできます。これを、文化の格差や商業主義について考察する素材になるわけです。 現代アートとポピュラー文化の距離に僕は興味あるので、ポピュラー音楽についても勉強しないといけません。

  •  「郊外」のシテと「野生の思考」 - 社会学徒の研究(?)日誌

    bokosu
    bokosu 2010/10/14
  •  ブルデューの資本概念 - 社会学徒の研究(?)日誌 “A quoi sert la sociologie ?”

    ブルデュー研究 先日ブルデューのハビトゥス概念について書いたので、今度は資概念について書いてみます。ブルデューの資概念ですが、日で論じられてきたものは(おそらく)ほとんどか全てが間違っているというのが僕の見解です。(念のために言っておくと、ブルデューの弟子筋の研究者とブルデューの基礎概念に関する理解を共有しているのは、日語を使って研究している者の中では僕だけかもしれません。日の長老たちは、どうしてもこの資概念が理解できないようです。) なぜ間違っているかというと、大事な前提の一つが常に抜けているからです。それとは、ブルデューの資概念と界概念とは、1971年以降セットで考えられるようになったということです。ブルデューはのちに、「資は界なしには存在することも機能することもできない」とまで言うようになります(『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』)。逆に、1970年以前のブルデュ

  • ブルデューの界(場)概念 - 社会学徒の研究(?)日誌 “A quoi sert la sociologie ?”

    社会学, ブルデュー研究 ハビトゥス概念と資概念については以前のエントリで書いたので(リンクをクリックして下さい)、今日は界概念について書ます。 ハビトゥス、資、界の3概念を、僕はブルデュー社会学の3つの基礎概念と呼んでいます。この見方をしているのは日ではほとんど僕だけかもしれませんが、フランスのブルデュー派の研究者の間では常識となっています。「そんなことわざわざ言うまでもない」という雰囲気で、ブルデューの社会学を応用したり批判したりする際にも、3つの基礎概念を軸に彼の社会学を考えるのがブルデュー派では一般的となっています。(もちろん、こうした前提に安住していてはいけないのですが、まずはこの見方を踏まえてからブルデュー社会学の批判的受容を行っていくべきです。) それでは、まずは僕が『ソシオロジ』誌に発表した論文の引用から。 「界」とはフランス語でchamp、英語でfieldに相当する

  • ブルデューのハビトゥス概念 - 社会学徒の研究(?)日誌 “A quoi sert la sociologie ?”

    ブルデュー研究 ハビトゥス概念について、「有名だから自分は当然のごとく知っている。」こう思い込んでいる人は、多いはずです。しかし、社会学者に限定すると、この概念を分かっている人は日にいくらもいないと思います。実際には、ほとんど何も分かってないのに知ったかぶる大学教員が多いので、学生の方は気をつけましょう。(ウィキペディアも全く役に立ちません、念のため。)たとえば、宮島喬氏などは、その典型例です。ブルデューの社会学を「文化的再生産論」で括るというとんでもない曲解をし、社会学辞典まで作ってブルデューの諸概念についてでたらめなことを書いています。 「文化的再生産論者ブルデュー」という虚像が広められたのは日とイギリスにおいてですが、イギリスでは世紀が変わってから、そういう虚像を真に受ける社会学者は皆無になりました。でも、日では未だに『社会学』(長谷川・藤村・町村・浜/共著)などの代表的な社会

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