Published 2023/04/13 12:01 (JST) Updated 2023/04/13 12:19 (JST) 北朝鮮が発射したミサイルについて、政府は当初、北海道南西部の陸地に落下する恐れがあると推定していたことが13日、政府関係者への取材で分かった。
初めて公開された織田信雄が徳川家康に宛てた書状=山形県鶴岡市で2023年4月12日午後1時40分、長南里香撮影 山形県鶴岡市の致道博物館(酒井忠久館長)は12日、織田信長の次男信雄が1585(天正13)年10月に徳川家康に宛てて書いたとされる書状を初公開した。記者会見した菅原義勝・主任学芸員によると「羽柴秀吉と対立していた家康に信雄が『どうする家康』と、(秀吉への)臣従を望んで仲介したことを示す初出の文書」という。29日から一般公開する。 書状は、信雄と家康の連合軍が天下統一を目指す秀吉と衝突した小牧・長久手の戦いの翌年に書かれたもの。「秀吉も家康の考えを十分に承知しており、慎重に事を進めるだろうからご安心ください」と和睦を勧める内容という。
戦国時代に徳川家康とともに「小牧・長久手の戦い」で豊臣秀吉と戦った織田信長の次男、信雄が家康宛に送った書状が、山形県鶴岡市の博物館で初めて公開されました。 専門家によりますと、家康と秀吉の仲介役を信雄が担っていたことが読み取れる貴重な資料だということです。 12日報道陣に初めて公開されたのは、1584年に徳川家康とともに「小牧・長久手の戦い」で豊臣秀吉と戦った織田信長の次男、信雄が家康宛に送った書状です。 この書状は江戸時代に庄内地方を治めた酒井家の家臣の家から見つかり、平成25年に鶴岡市郷土資料館に寄託されたあと、去年複数の専門家が分析しました。 専門家によりますと、書状には「家康の家臣、石川数正を秀吉に参上させ、今後について相談することはとてもめでたい。秀吉も考えを承知し、慎重にことを進めるだろう」などと書かれていて、家康と秀吉に緊張関係が続く中で信雄が仲介役を担っていたことが読み取れ
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