幼い頃、祖父母が人形を買ってくれた。女の子だから喜ぶはずという訳である。まだ自分と他人との区別もつかない頃の私は、その人形が生きていると思い、手を掴んだ。 しかし、その手は冷たく、硬く、少しビニールの匂いがした。 その時のトラウマか、大人になった今でも人形が怖い。絶対近くには寄らないし、さわらない。ロボットもダメだ。人間の形をしているのに人間でないものに不気味さを感じてしまう。 そういう人が他にもいることを最近知って、少し安心した。貰った人形は、祖父母には申し訳ないけど供養に出した。
![人形が怖い](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/b1638cdb5807a4788e4ba3c1109a984166e095fc/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fanond.hatelabo.jp%2Fimages%2Fog-image-1500.gif)
自分が差別してないと思ってるの? それともある一定のラインの差別までは許して、できるだけ差別しないようにしようねってことなの? 差別しない人間って発狂するしかないと思うんだけど ※追記 ブコメざっと見た これは他人と自分のズレを感じたことなんだけど、自らが存在することを前提に考えてる人が多いんだなと思った 自分は「認知できない被差別者」を想定する限り差別と区別は分断できないと考えてるんだけど、そうすると現行制度がどこかで被差別者を孕んでいる可能性があるように、自己規定・アイデンティティのような「存在」もまた差別であると考えなければならない。だから差別しない人間は発狂すると書いた 多かった意見として、「差別のない状態が理想だから、そうならないように努める」的なものがあったけど、それは「存在」という差別の容認ではないのか。自分が認知できる差別だけを許さないのならそれでいいかもしれない。でも認知
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