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ブックマーク / yskszk.hatenadiary.org (2)

  • pêle-mêle - だいがくいんのきょうふ

    唐突に書きたくなったので、大学院生時代の思い出を書く。「唐突に書きたくなった」以上のきっかけはない。 オレが通っていた大学院である日、OBやOGをまじえたパーティーが開かれた。おたがいに初対面の者が多いパーティーのつねとして、簡単な自己紹介と近況報告がはじまった。そのなかでひとりの女性が、子供向けの絵か何かを翻訳したことと、その訳書がちょっとしたベストセラーになったことを伝えた。その時点では周囲の者は彼女の業績を称えたが、彼女がパーティーを中座して帰宅したあと、場は「糾弾大会」と呼びたくなるような雰囲気に変容した。決してアカデミックではない書物を訳したこと、それがベストセラーになったこと、しかもそれを自慢げに(オレにはそう感じられなかったが)語ったことが、嫉妬と怨嗟の対象になったのだ。彼女がどのくらいの印税を得たのか、執拗にこだわる者までいた。 いまとなっては「糾弾大会」と化した理由は、

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    budapest
    budapest 2007/06/05
  • ノンフィクションの読まれかた - pêle-mêle

    沢木耕太郎『一号線を北上せよ』(ISBN:4062109239)読了。 ノンフィクションやルポルタージュ、あるいは実用書は「誰が書いたか」ではなく、「何が書かれているか」を基準にして読まれる。たとえばボクシングが好きで、ひたすらボクシングに関するばかり読んでいるひとが、沢木耕太郎の『一瞬の夏』に感心したからといって、『テロルの決算』や『檀』にまで手を伸ばすとは、ちょっと考えられない。いや、彼ぐらい作家性の強い書き手であれば、それこそ『一号線を北上せよ』のように、文体も分量も舞台も執筆時期もまちまちな文章が一冊のとしてまとめられる機会はある。しかしそのような書き手はごく一部。多くの書き手の著作は相も変わらず「○○さんのだから」ではなく、「××を扱っているだから」という理由で消費される。ノンフィクションやルポルタージュでそれなりの名声を得た書き手が小説を書き始めるのは、自分の文章が「書

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    budapest
    budapest 2005/07/17
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