タグ

モハメド・アリに関するbuhikunのブックマーク (3)

  • モハメド・アリ、その「第三の顔」を語ろう

    <今月亡くなったモハメド・アリの、ボクサーや人権・平和活動家としての顔は知られているが、日では「話術師」としての一面はあまり知られていない。パックンが言葉の壁を乗り越えて、アリの表現者としての魅力を解説する> モハメド・アリが亡くなった日、大きなショックを受けた。そして、周りの人とその悲しみを分かち合おうとしたら、さらに大きなショックを受けた。 なんと、モハメド・アリを知らない日人が非常に多かった。 「アントニオ猪木と戦った人?」という友達もいれば「アトランタ五輪で聖火を点火した人」という友達もいる。「ああ、あの震えてた人ね」といった友達もいたが、キミはもう友達じゃない! 「ボクサーとしてだけではなく、人権運動家、反戦運動家として世界の弱者に勇気を与え、進化する時代の象徴となった大ヒーロー」と答えた友達は誰もいなかった。まあ、それは無理もないかもね。 とにかく、アリに関する情報は浸透し

    モハメド・アリ、その「第三の顔」を語ろう
    buhikun
    buhikun 2016/06/17
    意外だがここまで「ほら吹きクレイ(旧カシアス・クレイ)」なし(苦笑)/日本のあのチャンピオンやそのチャンピオンと違ってほんまもんのカシコやった。合掌<m(__)m>
  • モハメド・アリは、ベトナム戦争反対に全てを賭けた

    モハメド・アリは、自らが尽力した最も有名な社会運動――ベトナム戦争反対、そして徴兵拒否――の影響で、ボクサーとしての全盛期を棒に振り、何百万ドルもの金を失い、その後、彼のイメージは変わってしまった。最終的に、彼は借金生活にまで追い込まれた。この社会運動は、思いつきの一言で始まった。 それは1966年3月のことであった。アメリカ軍はベトナムとの戦いを格化させていた。軍は徴兵の基準を大幅に下げ始め、より多くの兵隊を召集した。陸軍の知能指数テストで78点だったアリは、点数が低すぎたため1962年には徴兵されなかった。しかし徴兵基準の引き下げは、彼がいつ徴兵されてもおかしくない人物になったことを意味した。

    モハメド・アリは、ベトナム戦争反対に全てを賭けた
    buhikun
    buhikun 2016/06/11
    経済的徴兵制、キンシャサノキセキ、そして「Japanese only」。
  • モハメド・アリ氏 40年前に猪木氏と「世紀の一戦」 | NHKニュース

    亡くなったモハメド・アリ氏と日との関わりとして知られるのは、昭和51年、「世紀の一戦」とも呼ばれた、プロレスラーのアントニオ猪木氏との日武道館での対戦です。その後もアリ氏と猪木氏の交流は続きました。 その後もアリ氏と猪木氏の交流は続き、平成10年に猪木氏のプロレスの引退試合が東京ドームで行われた際には、難病のパーキンソン病を患いながらもアリ氏が駆けつけ、リングで花束を贈っていました。 モハメド・アリ氏が亡くなったことについて、プロレスやボクシングの興行が定期的に行われる東京・水道橋の後楽園ホールの近くでは死を惜しむ声が聞かれました。 56歳の会社員の男性は、「猪木との異種格闘技戦を家で見たが、当時は衝撃的な試合でした。今の格闘技の草分け的な戦いをした人で、時代が終わったという感じで、残念です」と話していました。また、42歳の会社員の男性は、「パーキンソン病を患いながらアトランタオリンピ

    buhikun
    buhikun 2016/06/04
    NHKの7時のニュースに、元気会の首領様と国分寺のだんご屋の親父(輪島功一)が動画で出たのはびっくり(白目
  • 1