劇の終わりはどこにある? 「fin」 これで映画は終わる。しかしこれがなかったらどうだろう。私たちは映画の終わりを見ることができるのだろうか。 「クレヨンしんちゃん嵐を呼ぶ夕陽のカスカベボーイズ」を観た。児童映画なんか、といって侮ることなかれ。この映画はしんちゃんの活躍もさることながら、ものすごい映画なのである。 あらすじは、古びた映画館に迷い込んだしんちゃんの友達と家族が、誰もいない映画館で映写されている荒野に引き込まれ、映画の中に入り込んでしまう。映画の中では毎日が単調に過ぎてゆく。映画は終わらないのだ。おかしいと思った野原家は映画を終わらして現実に帰るため、映画を終わらせまいとする悪役と対決することになる。 映画における「fin」の喪失はなんという絶望だろうか、と思うかもしれないが、しかし、登場人物たちはそんなに絶望していない。日にちが経つにつれ、現実での記憶を忘れていってしまうのだ
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