タグ

読み物に関するcanakiのブックマーク (72)

  • 子どもの日の思い出 - 傘をひらいて、空を

    これ撒いて、私のまわりに。彼女はそう言って私に小さい四角い紙包みを手渡した。私たちはターミナル駅の真上のビルディングに入った店で待ち合わせをして、軽くおしゃべりするつもりでいた。それなのに彼女は非日常的な飾りけのない黒い服を着てあらわれた。それは完璧な黒さだった。隙のない襟元、膝下数センチの裾、布張りの小さい鞄、匿名的なかたちのローヒールシューズ。 あの、こんなことしてて、いいの。席に着いてからそう訊くと彼女は眉を上げ、片手を上げてジントニックをくださいと注文する。いや、不幸があったみたいだから、みたいっていうか、そうなんだよね、だったら、私と会うのなんか、いいのに。私がそう言うと彼女は、気が滅入るから少し話してくれると助かる、と言った。死んだのは父なの。 彼女は早くに家族と連絡を絶って働きながら大学に行き、職を得た。二年前に住所を変えたとき、ちかごろは引っ越しが楽だよと言っていた。不動産

    子どもの日の思い出 - 傘をひらいて、空を
  • プラスティックフィルムの仮面と散らかった目鼻 - 傘をひらいて、空を

    こんな美人が職場にいたら大変でしょうと、隣のテーブルの知らない男が言った。下卑た声だった。私たちはどちらからともなく黙ってそれぞれの手元のグラスを引き寄せた。その中身だけがこの世で唯一の自分たちの味方であるかのように。 うまくあしらう女の声と、それをまたうまくあしらう複数の声が聞こえて、それから、そうですねえ履歴書の写真みたときはそう思いましたねえと、ひときわ大きな別の男の声が耳に入ってきた。美人が来るんだと思ってうれしかったなあ、でもまああれですよね、しゃべっちゃうとこのひと美人が台無しだし、一緒に働いてたらどうでもよくなっちゃうじゃないですかそんなの。 私はほっと肩の力を抜いた。それから話題にされている女をちらりと盗み見た。痛々しいほど若くて、かなしいくらいきれいな顔立ちをした女だった。よく訓練された筋肉でもって目を三日月のかたちに整え、適切な角度で桜色のくちびるを引き上げていた。まぶ

    プラスティックフィルムの仮面と散らかった目鼻 - 傘をひらいて、空を
  • 着道楽とリョウシンノカシャク - 傘をひらいて、空を

    いいですね先輩はいつも、と彼女は言う。係数は少し高いねと私はこたえる。彼女は鼻歌まじりにインスタントの味噌汁をかきまわし(相対性理論の『Loveずっきゅん』)、小さいスプーンをぺろりとなめてからその場で洗った。この後輩は器を使い終えてすぐ洗浄する。子だくさんの昔ながらの熟練の主婦みたいに。まだ二十三のひとり暮らしの女の子なのに。 私たちは給湯スペースを出る。彼女は私の足を見て話す。係数っていいですね、でも収入から算出するとあんまりおもしろい数値じゃないかもしれないです、相当小さくできる支出じゃないですか、だから支出の割合から出したほうがいいと思います係数。 私は席に着いてカップ春雨に息を吹きつけ、コンビニエンスストアの巻き寿司のパッケージの精巧さに何度でも感心しながら剥がして、あなたは何係数が高いの、と訊く。彼女の趣味節約だ。 彼女は持参したおにぎりと小さいプラスティックの容器

    着道楽とリョウシンノカシャク - 傘をひらいて、空を
  • 身体を取りもどす手順 - 傘をひらいて、空を

    手放した扉が閉じる音がして、彼女はそれにもたれかかった。頭がしびれるような停止の感覚があり、背中が扉を擦って滑り落ちる感触があった。触覚は一秒の何分の一かごとに遠ざかり、彼女はおなじみの感覚、世界から柔らかく厚い皮膜で隔てられているような感覚の中にいた。その中で自分が玄関に座っていることを自覚した。 深夜に職場から帰るなり彼女はそのようにして、それだから傍らには終夜営業のスーパーマーケットから持ち帰ったプラスティックバッグがいびつなかたちに崩れて中身をこぼしていた。電灯のスイッチに手を伸ばさなかったから視界は平板に黒い。彼女は自分が電灯をつけることを想像する。可笑しいと思う。肩より高いところに腕を持ちあげて指先を小さいプラスティック片に命中させるなんて、たちの悪い冗談みたいな気がした。ウィリアム・テルだとか、そういうたぐいの。 可笑しさも電灯の概念もスイッチの形状も唐突に彼女の意識から姿を

    身体を取りもどす手順 - 傘をひらいて、空を
  • 王侯貴族のチケット - 傘をひらいて、空を

    ちかごろはどう、と彼は訊いた。総じて敗北している、と私はこたえる。ラブ的な意味で、と彼は念を押す。ラブ的な意味で、と私はうなずく。僕も敗北続きだねと彼は言う。私たちは同じ会社に勤めていて、ときおり事をともにする。 私たちはお互いの様子を眺め、だいじょうぶ、私たちの敗北はきっと永遠ではない、という意味のせりふを言いあった。もう自分には需要がないのでは、と弱気になったとき、それを否定してくれるとわかっている異性の友だちと話す。いいことだ。 予定調和、と彼は小さい声で言って、インドカレーとナンの皿を視線で走査した。きっと両方がちょうどよくなくなるように計算しているのだ。私はとうにそれをあきらめている。 予定調和は大切だよと私はこたえる。心がなぐさめられるし、お互いを理解しているという証にもなる。でもつまらないと彼は言う。それを必要としている自分の状態がつまらない。 カリヤさんと会ってると訊くと

    王侯貴族のチケット - 傘をひらいて、空を
  • 分母を大きくする - 傘をひらいて、空を

    すこし足を伸ばして深夜営業のスーパーマーケットに寄るのが面倒だった。頭のなかにアスパラガスとトマトとバターと白身魚の姿がよぎる。面倒だったから無視して買い置きのレトルトカレーで済ませる。シャワーを浴びていてシャンプーとコンディショナー、石鹸が二種類、シャワージェルが二種類、アロマオイルの小瓶が四つ、ちまちま並んだ籠に足を引っかける。舌打ちをする。バスタオルを洗うのが面倒でハンドタオルを適当に使う。髪をがしゃがしゃかきまわす。布団にもぐりこむ。クーラーの温度を適切に設定していないことに気づくけれども腕を動かすのがいやだ。暑いとか寒いとかいちいちモニタリングして調整してやるなんて、そんな面倒なことはしたくなかった。 彼女はそのように話す。私はそれを聞く。そういうことは私にもあるよと言う。それから付けくわえる。クーラーをがんがんにつけたまま寝たら風邪をひく、風邪をひいたらとっても不便だ、温度だけ

    分母を大きくする - 傘をひらいて、空を
  • あなたはこれを好きだった - 傘をひらいて、空を

    はい、これ、いっぱいもらったから、お裾分け。私がそう言うと彼女は小首をかしげ、それから、笑った。声を出して笑う彼女を久しぶりに見て私はうれしかったけれども、その笑いにはもちろん屈折が感じられた。 ハンドクリームは二目、と彼女は言う。ボディクリーム、フェイスソープ、リップバーム、バスオイル。たったの二ヶ月かそこらのあいだに、会社の人も親戚も友だちも、やたらとスキンケア用品をくれる。忘年会のゲームの景品であたったとか、夫の仕事の関係で、とか、年末年始にパリに行ったから、とか。ここのは肌に合うって言ってたからっていう人までいた。他人によくそこまで関心持てるなあって思う。私の肌ってそんなに荒れちゃってるのかしら。 彼女はそう言って両のてのひらを頬のやや下でひらひらと振る。結婚指輪はもともとつけないタイプだ。そのことにすこしほっとして、それから、荒れてはいない、と私はこたえる。お肌に問題はないよ。

    あなたはこれを好きだった - 傘をひらいて、空を
  • 「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1(篠田博之) - エキスパート - Yahoo!ニュース

    2014年3月13日に東京地裁で行われた「黒子のバスケ」脅迫事件初公判で、渡辺博史被告が読み上げた冒頭意見陳述の全文をここに公開します。当初は月刊『創』の次号に掲載しようと考えていましたが、この事件について多くの人に考えてもらうために、全文を早く公開したほうがよいと思いました。 法廷では時間の関係で全文朗読されなかったのですが、読み上げなかった部分に重要な記述もあります。例えば、昨年、脅迫を受けた書店が次々と出版物を撤去していった時期の後に、被告は書店への放火を計画していたという内容です。実行前に被告は逮捕されたわけですが、これは実行されていたら、深刻な事態を引き起こしていたと思われます。 この公判の内容は新聞・テレビで報道されていますが、ごく一部のみ切り取って報じられているため、内容が正しく伝えられていない気がします。アベノミクスで景気回復などと庶民の実感と乖離したことが喧伝される一方で

    「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1(篠田博之) - エキスパート - Yahoo!ニュース
  • ずっと失敗していたい - 傘をひらいて、空を

    落ちちゃった、と彼は言う。だいじょうぶ、と彼女は言う。彼女の体温がほんの少し上昇する。彼の職場の昇任試験が何度受験可能なのか彼女は知らない。彼も言わない。そんなことはどうでもいいとさえ、彼女は思っている。彼女はただ彼に、そのままでいてこの世にはなんの問題もないと、そう教えてやる。小さいころからもう二十年ばかり、断続的にそうしている。 七つの彼を見て彼女は、かわいそう、と思った。彼の兄は彼の二倍の年齢なのに小学生にしか見えない華奢な少年で、そのくせ子どもたちより大人たちのほうに、すっかりなじんでいるのだった。彼はその背後でうつむいていた。彼の兄の内面は早熟でそれを格納するからだは脆弱で、その兄にばかり兄弟の母親の視線が注がれていることが、彼女にはくっきりと看て取れた。なにもかも年相応で目立たない彼を、誰も見てはいなかった。彼女は彼を見た。彼も彼女を見た。かわいそう、と彼女は思った。遊びましょ

    ずっと失敗していたい - 傘をひらいて、空を
  • 見えないなあ、聞こえないなあ - 傘をひらいて、空を

    なんなの今日、「中間管理職のかなしみをつぶやく会」なの、もっと明るい話題を出そうよ、そうだ子どもとか、向井のとこ、今かわいい盛りじゃないの。かわいいとも、ものすごくかわいいとも、でもイヤイヤ期ってやつでもある、もうたいへん、正直仕事よりたいへん、そんなわけで子の話題でもやはり愚痴になる、すまない、そうだ独身組こそ恋愛の話でもしろ、なんかこう華やかなやつを。ねえよ、そんなもん。そもそも自分が独身のときに華やかな恋愛をしたか思い出してみたらいいよ。 遠い故郷に帰って就職した友人が出張で来ているというので学生時代の同級生と集まったら、話題がなんだかえらく地味で、それで誰かが抗議の声を上げたのだった。しかしそれも人生が順調な証左というものじゃあないかしら、と私は言う。私たちになんらかのささやかな役割が割りふられているのはそんなに悪いことじゃないでしょう、みんなこの年齢まで生きていて、それぞれの場所

    見えないなあ、聞こえないなあ - 傘をひらいて、空を
  • 山手線の中で悪魔に会った話 - 傘をひらいて、空を

    毎朝と毎週と毎月、その後の一日と一週間と一ヶ月について彼は想定する。想定には一から百の目盛りがついている。百の日、と彼は思う。完全な日曜日。彼はわずかに震え、人に変に思われない程度にほほえんだ。百、すなわち目盛りのいちばん上を使ったことはかつてなかった。彼はその日として想定しうるもっとも良い状態にあってもっとも良い反応をもらい、想定しうるかぎり最大限に適切なふるまいをした。夜の繁華街はどこもかしこもきらきら光って、道ゆく人は皆うつくしく、たのもしく見え、彼らも彼を同様のものとしてあつかっているように思われた。 山手線のホームの彼の前に並んだのは小柄な女性で、だから彼の視界はほとんど丸ごと残されていた。Merry Christmas! その文字列は電車のボンネットにあった。特別な電車。特別な季節。特別な自分。彼はその機嫌のいい文字列に自然に歩み寄り、それをつかんだ。いい気持ちがした。完全な日

    山手線の中で悪魔に会った話 - 傘をひらいて、空を
    canaki
    canaki 2013/12/24
    awesome
  • 正解を引きあてる - 傘をひらいて、空を

    髪、切ったんだね、と彼は言った。その声だけを彼女は聞いた。手元の配線と目の端のガラスの反射とその外の景色との中の自分の足の汗を噴きだすようすと指に触れているものの感触が、すべて同時に、くっきりと知覚された。正解を引き当てなければならない、と彼女は思った。そうしなければ私の人生はここで終わる。たぶん。 彼らはある種の人々だけを受け入れる住宅地に設置された瀟洒な幼稚園にいて、彼女は彼女の仕事である撮影のために、カメラとその周辺機器を設置しているところで、彼はその手伝いをしていた。彼は彼女の背後の十センチと離れていないところにおそらくはいて、振りかえることは不正解であると、彼女は知っていたから、だから首を動かさなかった。彼女に撮影される予定の品のいい園児たちが笑いあう愛らしい声が、ガラス越しの庭からうっすらと聞こえた。それはうつくしい春の午後で、空はきれいに晴れわたり、「子どもたちをその目でき

    正解を引きあてる - 傘をひらいて、空を
  • プレパラート・テスティング - 傘をひらいて、空を

    さっきまでグラスだったものを、彼は見る。代わりを買いに行くのが面倒だと思う。それが自分の手を滑りおちた原因を、彼は把握していない。彼のてのひらの感覚はどこか遠く、それは今にはじまったことではない。のろのろと彼は破片を集める。紙の袋に入れる。あっと声をあげて反射的にガラスの破片の散らばった場所と反対の側にからだを落とす。左足に刺さった破片を、舌打ちして抜いた。いまいましかった。絆創膏なんか持っていなかった。片足で歩いているつもりでよろけて、床に血の跡がついた。もう一度舌打ちをして、怪我の処置のための商品が置いてあるコンビニエンスストアを思いうかべた。それはとても遠いもののように思われた。そこにたどり着くことはとうていできない、無茶な相談みたいな気がした。足にタオルを巻いて彼は、泥のように眠った。 そんなわけで腫れちゃったんだと彼は話す。めんどくさくてさあ。今朝コンビニでマキロンと絆創膏のでか

    プレパラート・テスティング - 傘をひらいて、空を
  • 今はなき王子のための - 傘をひらいて、空を

    里佳子さんが会社に戻ってくるのはもちろんうれしい。うれしいけれども、復帰の打ち合わせと称して女の社員ばかり三人でようすを見にいった私たちの前で里佳子さんはなんだか、思っていたのと違うのだった。私たちは里佳子さんを案じていた。里佳子さんの夫はえらくいばっていて、それもなんというか、自分がえらいものであるために他人を、つまりこの場合はである里佳子さんを劣ったものとしてあつかう人で、だから、子どもができて休暇に入った里佳子さんをいじめているのじゃないかって、みんな心配していたのだ。里佳子さんは傷ついているのではないか、疲れているのではないか、自己評価が下がって不安定になっているのではないか。 里佳子さんはそういうのとは少しちがっていた。だからといって楽しそうな、幸福そうなようすでもなかった。もしそうだったら子どもができて里佳子さんの夫は変わったのだと、私たちはそう推測してうれしい気持ちになって

    今はなき王子のための - 傘をひらいて、空を
  • 逃走の作法 - 傘をひらいて、空を

    あけましておめでとうございますと私は言う。あけましておめでとうございますと彼女も言う。それから、生存に、とつけ足す。ほんとうにおめでたいことだねえと私は言う。私たち、生きてて、いろいろたのしくって、おめでたいねえ。Skypeの向こうの古い友人は少しだけ沈黙し、それから、ちいさく笑う。 彼女は路上にきわめて近いところから人生を構築した。私は彼女ほどきつい状況にはなかったけれども、心情的には類似のカテゴリに所属していた。だからまだ少女といっていい年齢で彼女は私を発見し、私は彼女を発見し、そうして、たがいを特別なものとして取り扱った。見た目の同じ動物たちのなかにあって擬態を見破られないよう始終気を張っているにせもの同士として。 彼女の生家は彼女の言うところのマイルドな地獄であり、彼女の話を聞くたび私はおおいに憤った。あなたはきっとすごく強くなると私は言った。強くなって、それで、そんなものぷちっと

    逃走の作法 - 傘をひらいて、空を
  • 墓荒らしの量刑 - 傘をひらいて、空を

    あなたは私に気を許してなんでも無防備に見せている、それが気持ちいいから私にはあなたのことがわかると誇示したかったんだと思う。彼女はそのように話す。とても醜い欲望だよ、許されないのも承知の上で私はそれに負けた。だからしかたがないんだよ。 彼女の友人がそんなのを織り込んで彼女を許したらいいのにと私は思う。でもそれは観客である私の欲望にすぎない。 不自然に白い皮膚を押して古いなと彼女は思う。古い古い傷だ。ほとんど傷でないように見える。なにかの拍子に色素が抜けた箇所のような。でもそれはあきらかに鋭角を持つ切り傷のかたちをして、深く切ってぱっくりと割れたのでなければ人体にそんな痕跡のつくはずのないことを彼女は知っていた。そしてそれを口にした。いつ切ったの。 彼女はそれを見慣れていた。彼女が友人にアーモンドの油を塗ってその不器用な筋肉をほぐしてやるのは今にはじまったことではないし、人に触れるとき彼女の

    墓荒らしの量刑 - 傘をひらいて、空を
  • 正解、正解、正解、正解? - 傘をひらいて、空を

    電話を取ると今ちょっといいですかと彼女は言い、相変わらず実に日語らしい表現を遣うなあと私は思う。発音は完全ではない。あきらかな英語なまりがある。けれども言いまわしはきわめて自然な口語だし、それを用いるシチュエーションを誤ることも滅多にない。 彼女はアメリカ合衆国のメキシコにほど近い地域で生まれ育ち、職業として英語スペイン語と日語を教えた経験をもつ。大きなめがねをかけて、質素な身なりをして、いかにもアングロサクソン的な容姿で、今は東京にいて、高校生に英語を教えて暮らしている。私の古い友だちので、年に一度たくさんのごはんを作って郊外のおうちに呼んでくれる、気のいい人だった。けれども職場ではずいぶんと怖い先生なのだそうで、誰かが彼女の勤め先の名前をあげて、あの学校の生徒なら優秀でしょうと訊くと、みじんの迷いもなく英語に切り替えてノーというのだった。たぶん「いいえ」じゃ足りなかったんだろう

    正解、正解、正解、正解? - 傘をひらいて、空を
  • 忌避される愛あるいは憎しみ - 傘をひらいて、空を

    扉が勝手にひらいて彼は凍りついた。反射的に目を逸らし不審にならない程度に彼女の目から離れたところ、彼女の右の耳朶のあたりに視線を戻し、儀礼的にほほえむ。彼女はドアノブを持ったままどうぞと言う。オフィスの入り口の扉だから反対側に誰かがいて同じタイミングで開けることは珍しくない。たいていの人がたいていの相手にドアを押さえておいてあげる。どうぞ。ああどうも、ありがとうございます。 彼はただそれだけのことを済ませるために、午後いっぱいの作業より多くの体力を使った。自席に戻ると特有の脱力感がおとずれた。それは彼の覚えているかぎり彼女と向きあったあとにだけ発動する感覚だった。無事に逃げてきたような感慨を、彼はおぼえた。皮膚感覚が鋭敏になり、サーキュレータの風が当たっている部分がどこからどこまでかまできちんと感じ取ることができた。足の裏の皮膚に触れている下の布地の糸のからみあっているようすとそこに含ま

    忌避される愛あるいは憎しみ - 傘をひらいて、空を
    canaki
    canaki 2013/05/21
    スター連打したいのに何も出来ない悲しみ
  • くれてやる笑顔と瑣末で効果的な自尊心の折りかた - 傘をひらいて、空を

    部署の中に空いたデスクがひとつあって会議室をとるほどでもないときのミーティングスペースになっている。私はそこで今ふたり組で仕事をしている相手と細かな打ち合わせをしていた。少し厄介な問題があることを相手が告げて、困りましたねと私はつぶやく。それならとやけに大きな声がして私たちは話を止める。声は滔々と対策を述べ私は困ったなと、さっきとはちがう部位で思う。それはすでに試された手段だった。その人は私の口を利きたい人ではなかった。 声が発されてわずかに数秒、そこにかぶせて別の声が響く。槙野さん資料要りますか。私は瑣末な窮地を救われて振りかえり、同時に救った人を認識してなぜだか背筋を寒くする。返事をしたくない声はまだ続いている。彼は背後の声を再度覆うために最低限必要な音量の明瞭な口調で、役に立つと思いますと告げる。 実際のところそれはかなり役立つものだった。彼はそれをプリントアウトして提供した。打ち合

    くれてやる笑顔と瑣末で効果的な自尊心の折りかた - 傘をひらいて、空を
  • 彼女の悪い趣味 - 傘をひらいて、空を

    彼女は彼を甘やかすのがとてもうまい。彼女は彼の安い欲望の諸相を熟知している。持ち上げて。連絡して。連絡しすぎないで。呼んだら来て。顔色を読んで。きれいにして。安心させて。優越させて。頼るそぶりをして。好ましい内容で。 彼女はそれを軽々とクリアする。彼女の能力は高い。その程度のことは彼女の娯楽の範疇だ。甘い真綿を敷くように彼女は彼をいい気持ちにする。彼女の有毒であることは私の目にはあきらかだけれど、彼女はもちろんそれを彼に見せない。キャンディみたいなパッケージ、両端を引けばころりと落ちる。そんななりをしている。 彼が彼女を愛玩しはじめて、そう見えて実のところ彼女が彼を愛玩しはじめて、もうすぐ一年になる。夏になると彼女は、ねえ悪巧みがしたいなと言う。彼女は悪い企みごとがとても巧い。夏が来たからねと私はこたえる。彼女のそれは季節性の病だ。悪巧みのために彼女が彼を引っかけたのが去年の夏で、それはす

    彼女の悪い趣味 - 傘をひらいて、空を