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心理と戦国に関するcastleのブックマーク (5)

  • 坂口安吾 織田信長

    立入左京亮(たてりさきょうのすけ)が綸旨二通と女房奉書をたずさえて信長をたずねてきたとき、信長は鷹狩に出ていた。 朝廷からの使者は案内役の磯貝新右衛門久次と使者の立入とたった二人だけ、表向きの名目は熱田神宮参拝というのである。 信長へ綸旨と女房奉書をだしては、と立入左京亮から話を持ちかけられた万里小路(までのこうじ)大納言惟房(これふさ)は、おまえ大変なことを言う、さても、困った、困った、と言った。 信長という半キチガイの荒れ武者がどれほど腕ッ節が強くて、先の見込みのある大将だか知らないけれども、目下天下の権を握っている三好一党と、その又上に松永弾正(だんじょう)という蛇とも妖怪ともつかないような冷酷無慙なジイサンの睨みが怖しい。まったく弾正久秀という奴は蛇も妖怪も及びがたいジジイだけれども、たまには米もたらふくいたいし、冬には温いフトンも慾しいじゃないか。雲の上人とは、よく言った。雲の

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    castle 2024/01/20
    ※未完。「達人ほど自信がない。怖れを知っているからだ~だから、自信というものは、自分でつくるものではなくて、人がつくってくれるものだ」「信長は義昭の心を信じなかったが、老蝮(悪党)の信義を信じていた」
  • 「武田家が滅亡」裏切り者が続出した"きっかけ"

    今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松潤さんが務めている。今回は武田家滅亡の背景に迫る。 信長・家康は武田家をどのように滅亡に追い込んだのか? 天正5年(1577)閏7月、徳川家康は武田方の高天神城(掛川市)を格的に攻撃し始める。 元来、高天神城は、今川氏に属していた国衆・小笠原氏が城主だったが、今川義元の死後は、家康に従属する。その後、同城は、武田勝頼により攻められ、開城、武田方の城となった経緯がある。 甲斐の武田勝頼は、徳川方に攻められた高天神城を救援するため、出陣。しかし、両軍の主力は激突することなく、勝頼は10月20日には大井川を越えて引き揚げていった。 なぜ衝突することもなく、引き揚げていったのか。それには上杉氏との関係がある。 1578年3月に越後の上杉謙信が急死した。謙信は後継者を定めていなかったため、上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(謙信の養子。北

    「武田家が滅亡」裏切り者が続出した"きっかけ"
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    castle 2023/06/14
    「武田が(御館の乱で)上杉景勝に味方した事で、景虎方の北条氏(同盟国)との関係が悪化」「北条氏政は家康と結んだ為、武田勝頼は東西から挟撃~高天神城の後詰(援助)も叶わなかった」→「天下の面目を失った」
  • 小田原評定 : 故事ことわざ辞典

    小田原評定の解説 【読み方】 おだわらひょうじょう 【意味】 小田原評定とは、長引くだけで、いっこうに埒が明かない会議や相談のたとえ。 【注釈・由来】 「評定」は、相談のこと。 天正十八年、小田原城主の北条氏直が豊臣秀吉の軍勢に包囲されたとき、城中で和戦の評議が長引いて、ついに決定されないまま滅ぼされたことから。 【出典】 - 【例文】 そんな小田原評定を一晩中していても、何の足しにもならない。 【注意】 - 小田原評定の関連語 【類義語】 小田原評議/小田原相談/小田原談合/小田原噺/狢評定/箱根の手前/謀夫孔だ多し、是を用て集らず/舎を道傍に作れば三年にして成らず 【対義語】 - 【英語のことわざ】 - 【索引語】 小田原/評定 【分類】 ・言葉 > 議論

    小田原評定 : 故事ことわざ辞典
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    castle 2021/05/08
    「長引くだけで、いっこうに埒があかない相談のたとえ」「「評定」は相談のこと。天正十八年、小田原城主の北条氏直が豊臣秀吉の軍勢に包囲されたとき、城中で和戦の評議が長引いて、遂に決定されないまま滅ぼされ」
  • 御遺訓|久能山東照宮について|久能山東照宮|静岡

    徳川家康公について 東照公御遺訓 生涯をかけて平和な国づくりを成し遂げられた徳川家康公の理念や理想の精髄は「人の一生は」ではじまる「東照公御遺訓」として今日に伝えられております。 御遺訓に示された人生訓は、正にその御生涯から生まれたものであり、徳川家康公の御精神そのものであると言えるでしょう。その内容はごく簡単な言葉でありますが、実行はなかなか難しいものであります。しかし、徳川家康公はこの御遺訓通りの御生涯を歩まれ世界に類のない長期平和の礎を築かれたのです。 東照公御遺訓(とうしょうこうごいくん) 人の一生は重荷(おもに)を負(をひ)て遠き 道をゆくが如し いそぐべからず 不自由を常とおもへば不足なし こころに望(のぞみ)おこらば困(こん)窮(きゅう)したる 時を思ひ出(いだ)すべし 堪忍(かんにん)は無事(ぶじ) 長久(ちょうきゅう)の基(もとい) いかりは敵とおもへ 勝事(かつこと)ば

    castle
    castle 2021/03/27
    「いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし~堪忍は無事長久の基。いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過すぎたるよりまされり
  • 家訓 - 【吾こそは上杉謙信なり!】

    家訓は、普通の家訓とはちょっと違っています。仏の道を学んだ経験があるからなのでしょうか。戦国時代に生きて、戦に明け暮れていた上杉謙信が後世に残した家訓とは、どのようなものだったのでしょうか。 家訓は、公家や武家など、江戸時代になると商家などでも書き残すようになりましたが、その家を将来もずっと守りたてて続いていくよう、子孫への戒めとして、その家の当主が書き記して残したものです。武家の場合は何ヵ条にもなっているものも珍しくありません。座右の銘のように、一言だけのものもあります。日では、平安時代に公家からはじまったものとされています。現在では、会社が一代でグループ化しているような大会社や、家族経営などで社風を作り上げてきた会社には、社訓として今日でも使われています。

    castle
    castle 2020/10/28
    「上杉謙信が後世に残した(十六か条の)家訓」
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