承前⇒finalventの日記 - 植草先生のことはわからんが 昨晩、そして今朝方、また少し考えた。 死の乗り越えの欲望、というのだとして(バタイユ=ヘーゲル的)、少し違うか、と。 たとえば、私の前に若い女がいるとする(まあかつていたが)。 そこに手を出すことは容易ではない、というときの障壁の質の問題ではないか。 一般的には、その障壁は、女の側の意志の問題だとされる。悪い言い方をすると、そこで女が、意志と身体に分けられれば、商談のようなふうにして障壁を越えることができる。あるいは、愛情とか。たぶん、愛情とは別の商談のような契約性を持つとしても。 ところが。 たとえば痴漢という場合、そこに対象との女との間の障壁は、基本的に、社会なり、慣習なり、掟なりであって、現代世界では、法=国家=共同幻想だろう。 つまり、性的な欲望=快感、あるいは、性的な欲望=二項関係というのではなく、そこには本質的な三