上記の手塚プロダクションによる弁明は、この差別の無責任構造を、表現規制において再生産しつつ、責任の所在を曖昧にするものです。手塚プロダクションは、当該の『きりひと讃歌』を差別的なものだと自らの責任において判断することはしません。しかし同時に、それを「差別と感じる人」を想定してこの弁明文を書いているのです。結果として、どう転ぼうとも手塚プロダクションには責任はないことになります。 「「俺が差別する」を、「差別される」とさらっと言い換える」というのは、こういうことです。 へえ。じゃあ手塚プロは出版という頒布行為によって『きりひと讃歌』を肯定することで、そこに「登場」する「いろいろな国の人物」の「一部について、いかにも野蛮で未開人という印象を与え」ようとしていたわけだw その「差別の責任主体を自分以外の何者かに託」すことによって「差別のアウトソーシング」とやらを実行したというわけだw では、ここ