織田 信忠(おだ のぶただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。岐阜城主。 父の織田信長から尾張・美濃の大名織田氏の家督を譲られる。天正10年(1582年)3月に甲斐武田氏を滅ぼして甲斐・信濃に勢力を拡大し、信長は「天下の儀も御与奪なさるべき」との意向だったが、3か月後の本能寺の変で信長は本能寺、信忠は二条新御所にて自刃した。 生涯[編集] 少年期[編集] 弘治3年(1557年)、織田信長の長男として尾張国清洲城で生まれる[2][3]。実母は不明(「崇福寺宛信忠書状」)[4][5]。『寛政重修諸家譜』では生駒家宗の娘とする[6]。信長の正室濃姫が信忠を養子にしたともいう(『勢州軍記』)。乳母は慈徳院(滝川氏)。幼名は奇妙(丸)[6][3]。元服して、菅九郎(勘九郎とも)と称した[3]。 永禄年間に織田氏は美濃国において甲斐国の武田領国と接し、東美濃国衆・遠山直廉の娘が信長の養
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