京都府出身[1]。大阪府立茨木中学校(旧制中学校)[2][3]大阪高等学校 (旧制)(後の大阪大学一般教養部南校)を経て大阪大学工学部冶金学科に入学し1953年(昭和28年)卒業。日本共産党に入党、「国際派」に属した志賀義雄衆議院議員秘書。1955年から1963年まで日刊産業新聞記者を経て、1963年に経済評論家として独立し、証券アナリスト業、評論家業を営み、著述や朝の情報番組へのテレビ出演なども行う。 80歳を超えてなお、積極的に出版・講演活動を行い、自分とコンサルティング契約を結んだ金融関連企業などでの発言を続けていた。長年続けている活動として、週刊の「長谷川慶太郎ニューズレター」、証券会社向けの週報がある。 2019年(令和元年)9月3日、心不全のため死去。91歳没[1]。 人物[編集] 砂川事件の後、方針について行けず転向しているが、党員時代の人脈から1968年にブルガリア共産党に