天正十三年(1585年)11月17日、東北で人取橋の戦いという大規模な戦がありました。 現在の福島県本宮市にあった【安達郡人取橋】の周辺で起きた戦いのためそう呼ばれ、皆さん大好きな伊達政宗と、「佐竹・蘆名・相馬・二階堂らを中心とする連合軍」が戦ったのです。 さすがにこれは政宗、涙目では……? と、思われる通り、伊達家にとっては悲惨な結果に終わります。 なんせ連合軍の兵数約35,000という大軍に対し、伊達軍は7,800だったのですから、下手すりゃ死んでいてもおかしくはありません。 実際、政宗もほうほうの体で逃げ延びるのですが、一体なぜ、そんな状況になったのか? 当時を振り返ってみましょう。 畠山義継に父を拉致られ射殺(or刺殺)なぜ伊達家はイジメみたいな展開を迎えてしまったのか。 戦の遠因としては、まず【小手森城の撫で斬り】が考えられます。 同年(1585年)閏8月に、小手森城(福島県二本