畠山義継に父を拉致られ射殺(or刺殺)なぜ伊達家はイジメみたいな展開を迎えてしまったのか。 戦の遠因としては、まず【小手森城の撫で斬り】が考えられます。 同年(1585年)閏8月に、小手森城(福島県二本松市)の大内定綱を攻めた政宗は、この城を陥落させると無慈悲な殺戮作戦を強行したばかりか、その様子を書状にしたため伯父の最上義光に送っているほどでした。 「Hey! おじさんよ! オイラ、定綱だけじゃなく女子供、犬も斬ってやったぜ! 斬って斬って斬りまくって1,000人以上を殺しちゃったよ。嘘じゃないよ、ホントだYO!」 このとき政宗19歳なので、かなり若気の至りがあったにせよ、それにしても東北では異常事態と言えました。 周辺の大名・国衆たちは親戚関係が複雑に入り組んでいて、そのため合戦にしてもホンキで相手を潰すような殺し合いに発展することは少なく、ある程度のところで互いに矛を収めるというのが
