WRCにも参戦経験を持ち、プロのラリードライバー、スタントドライバーでもあるケン・ブロック氏が、スノーモービルの事故で逝去。日本時間1月3日の11時に、フーニガン・レーシング・ディビジョンのinstagramにて、同氏の訃報が発表された。 【画像全55枚】 「ケン・ブロック氏が本日スノーモービルの事故で亡くなってしまったことを、私達は心から残念に思っています」 「ケンには先見の明がありパイオニアであり、同時にアイコニックな存在であった。最も重要なことは、父親であり夫であったということだ」 「彼がいない日常は、驚くほどに寂しく感じられるはずだ。ファミリーが悲しみにくれている間は、どうかプライバシーを尊重してください」 ◆世界中から哀悼のメッセージ、オートサロンで再会予定のマッド・マイク選手からも SNS上ではスーパースターの突然の訃報に、哀悼のメッセージが世界中のファンや関係者から寄せられて
頂点を極め、ロードレース史にその名を刻みつけた男たち。荒れ狂う2スト500ccのモンスターマシンをねじ伏せ、意のままに操った彼らのスピリッツは、現役を退いて時を経た今もなお、当時の熱を帯びている。伝説の男たちが生の声で語る、あのライディングのすべて──。ヤングマシン’12年11月号掲載の「THE CHAMPION TECHNIQUE」より、WGP史上唯一の記録となる250cc&500cc同時2クラス制覇を成し遂げたフレディ・スペンサーのインタビューをお届けします。 ※当WEB初出:2018年4月3日 【写真ギャラリー】天才の名をほしいままにした現役当時のフレディ・スペンサー いいかい? バイクには慣性モーメントが働くんだ矢継ぎ早に放たれるフレディ・スペンサーの言葉が、 ライディングの真実を語ろうとする熱意によって華やかに彩られる。 めまぐるしく変わる表情。ノートいっぱいにライン取りを描く。
1994年5月1日、サンマリノグランプリでのクラッシュで亡くなったアイルトン・セナ。34歳の若さだった photograph by Getty Images 28年前の5月1日、アイルトン・セナがサンマリノGPでの悲しい事故で亡くなりました。故人を偲び、これまで有料公開されていた記事を特別に無料公開します。<初出:Sports Graphic Number 968・969号(2018年12月20日発売)、肩書などすべて当時> 【秘蔵写真】セナが「伝説のヘルメットをかぶってウインク姿」と神ドライブがカッコイイ…宿敵プロストとの2ショット、若き日のシューマッハーとも…懐かしきF1ヒーローとホンダの雄姿を一気に見る 神懸かった走り、ライバルたちとの死闘によって多くの人々がF1とブラジル人ドライバーに心を奪われた。その1人、番組でカート対決に挑んだ“アイルトン・タカ”が、“音速の貴公子”との出会い
F1マシンはどのように作られるのかご存知でしょうか? マシンの設計や製造、実際にコースを走り出すまでの道のりをまとめてみた。 【YouTubeLive】シーズン序盤を振り返る……浜島裕英とF1トーーク!|motorsport.cast #4 ■F1マシンのパーツの数はいくつ? F1マシンは、シャシーやパワートレインなどが共通のいわゆる”ワンメイク制”のFIA F2やフォーミュラEなどとは異なり、各チームがマシンを独自に設計することになっている。そのためシーズンのランキングは”チームランキング”ではなく、”コンストラクターズランキング”になっているわけだ。 そのF1マシンは約14,500個※のパーツで構成されていて、それぞれのパーツ開発にはCAD(コンピューター支援設計)が用いられ、製造はCAM(コンピューター支援製造)もしくは手作業のオーダーメイドとなっている。 F1マシン設計において避け
現在位置: carview! > ニュース > 業界ニュース > 二輪も四輪も凄かった高橋国光さん ~木下隆之の、またがっちゃいましたVol.134~ 「レース界のレジェンド、高橋国光さん(82)逝く」……こんな訃報が届いてから、まだ数日しか経っていない。サーキットではもちろん、コース外でも度々お会いする機会があっただけに、悲しい思いである。 高橋国光さんの輝かしい戦績は枚挙にいとまがない。1958年から二輪のレース活動を始め、1961年は二輪、四輪を含めて日本人初の世界選手権優勝を果たした。マン島での活躍も語り継がれている。 ホンダ「CB4X」発表 CBR650Rのエンジンを搭載した斬新なコンセプトモデル 1965年に四輪へ転向してからも活躍は続いた。1971年にはF1日本グランプリに出場。1995年はル・マン24時間でも優勝など、国内外を問わず、幅広く活躍した。 特徴的なのは、1965
F1のウィリアムズチームを率いた元チーム代表のフランク・ウィリアムズさんが26日に死去した。79歳。同チームが28日に発表した。 【写真】娘のクレア・ウィリアムズもチームも副代表を務めた 1977年にチームを旗揚げし、「車いすの闘将」としても知られた。2020年に経営不振などを理由にチームを売却し、チーム代表から退いた。 在任中は製造者部門のタイトルを9度獲得したほか、7人のワールドチャンピオンを輩出。同チームには日本人では過去に中嶋一貴が在籍し、ホンダとトヨタがエンジン供給をした。 ヨースト・カピート現チーム代表は「ウィリアムズレーシングは創業者のフランク・ウィリアムズさんの逝去に大きな悲しみに暮れている。このスポーツにとってはレジェンドであり、象徴的な存在だった」などと哀悼の意を表した。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く