2006年4月7日のブックマーク (1件)

  • 人生という憂鬱のためのアーカイヴズ - ノート

    ■サブ・カルチャー的な「私」としての僕たち。 その13-a すでに多くの場所で言及されていると思うが、「まえがき」によれば〈マンガ表現のシステム論的解析〉となる『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ』というのなかで、伊藤剛は、マンガという表現において、身体を読み手に意識させる要素の、その在り方あるいは立ち方を、「キャラ(Kyara)」と「キャラクター(character)」の二項に分割している。 〈「キャラ」を定義するとすれば、次のようになる〉と伊藤はいう。 多くの場合、比較的に簡単な線画を基とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』 また〈一方「キャラクター」とは〉として、以下のような定義を行う。 「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」