この数年、ある種の正義を掲げる組織やシステムが、セクハラや性暴力の告発によって崩れ落ちるさまを見てきた。外部から閉ざされた「よきもの」とされた集団の中では、時としてさまざまな暴力が発生しがちであること、それは暴力とされず「被害」を訴える側に問題があるとされがちであることを改めて多くのひとに示すことになった。 長年アディクション臨床を通じて家族の暴力にかかわってきた私からすれば、それは遅きに失すると感じるほどに当たり前のことだった。なぜなら、よきものとされる代表は家族であり、80年代から多くの子どもや女性が同じような経験をされていたからだ。 このひとたちが、自らの経験を「被害」と定義するのにどれほど大変だったか。夫や親の行為に対して異議申し立てすれば、抗弁となり、反抗的で我が強い、親のせいにするとして逆に責められることになった。それがもっとも顕著に表れるのが、近親者による性虐待である。50年
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