勉は幸福であった。道子と二人でゆっくり歩くのは、二人がまだ恋を意識しなかった頃、野川を遡って以来である。 勉はそれを道子にいわずにいられなかった。道子は「恋ヶ窪」で初めて自分の勉に対する感情を「恋」と呼んだ時のことを思い出した。あれからふた月と経っていない。それなのに自分はこんなに変ってしまった。それではあのころの生活はみな嘘で、今が本当なのだろうか。それとも今の苦しみが嘘で、あのころが本当なのだろうか。 道子がこう反省している間、勉はしかしひたすら幸福に酔っていた。昔のわけ隔てのない親しさが、こうして二人で歩いていれば戻ってくるように感じる。なぜそれを「恋」と名づけて押し進めなければならないのだろうか。 (大岡昇平『武蔵野夫人』新潮文庫、1953) こんばんは。野川の水源は国分寺市にあります。西武国分寺線の駅名でいえば、恋ヶ窪はその国分寺の隣の駅。18歳まで住んでいた実家のアパートの最寄

