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創作と批評とheterosexismに関するcrowserpentのブックマーク (6)

  • 「エルサを放っておいて」#LeaveElsaAlone タグに対して感じるもやもや - #あたシモ

    アナ雪の「#GiveElsaAGirlfriend(エルサに彼女を!)」活動の件盛り上がってますね。 『アナ雪』エルサに彼女は出来るのか? #GiveElsaAGirlfriend の背景と私の予想 - QUEER NEWS JUNKIE ↑わたしも別ブログで記事書いたのですが、今、これに対する反動と言うか反対運動みたいな方が盛り上がってる感じで、特に日語圏の反応を読んでいると、ものすごく微妙な気分です。 「エルサに彼女を与えて」と言うのは、何も文字通りそれを要求してるのではなくて、ディズニー映画がこれまで描写してきたステロタイプやその与える影響を踏まえての、より広範な要求なんですよね。 しかし、「エルサに彼女を与えて」タグを文字通り解釈したうえで、エルサに恋人を作ることに反対したり、「エルサを放っておいて」タグなどが盛り上がっているのを見ると、「こうやって同性愛的な表現を求める声は消さ

    「エルサを放っておいて」#LeaveElsaAlone タグに対して感じるもやもや - #あたシモ
    crowserpent
    crowserpent 2016/05/07
    うん、これはこれで分かるのよね。「異性愛主義全開だったあのディズニーにクィアを!」っていう象徴的意味と、その批判に紛れ込むホモフォビアについて。
  • これは対幻想2.0だ。 ――東浩紀『セカイからもっと近くに』の歴史性 - 鳥籠ノ砂

    東浩紀『セカイからもっと近くに』(2013)は「著者最初にして最後の、まったく新しい文芸評論」として書かれた。このことは翻って、エッセイ集などを除く東浩紀の著作には「文芸評論」が存在しなかったこと、すなわち文学的作品それ自体を対象にした批評がなかったことを意味するだろう。あの『動物化するポストモダン』にせよ『ゲーム的リアリズム』にせよ、その論で扱われているのは作品の位相を下支えする環境の位相であって、作品そのものではない。かつて出版された「東浩紀コレクションLSD」の副題が明確に示しているとおり、彼の評論は「文学環境」と「情報環境」についてのものだったというわけだ。 東浩紀は『セカイからもっと近くに』のなかで「セカイ系」の問題を取り上げ、現実と虚構の再縫合を試みようとしている。セカイ系の問題とは、政治的な想像力と文学的な想像力が乖離してしまったこと、要するに共同的な幻想と個人的な幻想が切

    これは対幻想2.0だ。 ――東浩紀『セカイからもっと近くに』の歴史性 - 鳥籠ノ砂
    crowserpent
    crowserpent 2014/02/18
    「対幻想」概念についてはちょっと誤解してた。思ってたよりヘテロセクシズムべったりの思想だったのね。
  • どこへさんぽ・なにをさんぽ:「百合イズパンク」・同性愛作品のカウンター性

    2012/5/6の文学フリマで発行した『百合人―ユリスト―』。 当日ブースには、〈百合 is PANK〉というバナーを貼り出しました。 この言葉は、誌上でアンケートをもとに行なった対談の中で、藤山京子さんから出てきたものです。 「…ロックイズデッド百合イズパンクだよ。思想と密接に関係してくるという。」 「なんかこう。社会を変えるパワーというか。ウテナ的な、突破するパワーを感じますよね。」 (「対談・百合イズパンク!百合は世界を革命するか?」より) しかし、BL百合という同性愛の作品が、「カウンターカルチャーになってしまうこと」自体を問題視する見方もあるんだなあ、と最近目にする議論の中でよく感じたりしています。 ・それこそ「腐女子のゲイ差別」として問題になったりしたこととか。 (BLを愛好する人たちの中でヘテロの女性だけを「腐女子」と名指して、その人たちがBLをきっかけに現実の同性愛者の存

    crowserpent
    crowserpent 2012/05/09
    「ヘテロとして」語ることが、そのヘテロ規範自体が変容していることを覆い隠してしまう。語る言葉が現実に追いついていない「語れなさ」について。/関連:http://togetter.com/li/297541
  • BLと百合のフェミニズム - 鳥籠ノ砂

    ここ一年で、BLと百合に対する見方が大きく変わった。むろん、その二、三年前ではまた別の見方をしていたので、これから変わっていく可能性も大いにある。とはいえ、少し考えをまとめておく必要があるだろう。 たとえば、私は一年前「BLや百合は同性愛者への暴力だ」ということを書いている。一方で、「BLや百合は現実の同性愛や両性愛とはなんの関係もない」ということも書いている。だが今にしてみれば、この二つの主張は全く相容れないことが分かる。現実のものと関わらないものが、どうやって現実のものに暴力を振るうことができるのか。当時の私は、どうやら次のようなことを言いたかったらしい。「たとえばBLの多くは、たんに『異性愛のやり方』を(攻め・受けという形で)同性に当てはめているだけだ。それは実際の同性愛や両性愛とは別ものだし、セクシュアリティを一つの枠組みに押し込めている点で暴力なのだ」と。そして私はこうした考えの

    BLと百合のフェミニズム - 鳥籠ノ砂
    crowserpent
    crowserpent 2012/03/14
    「ほんもの」の同性愛と虚構としてのBL・百合、という対立の無意味さ。
  • 御法度を生み出すもの - 地を這う難破船

    ⇒誰でも美少女戦士になりたいはずだ - 地下生活者の手遊び ⇒なぜ僕が美少女戦士になりたかったのか? - 地下生活者の手遊び ⇒はてなハイク サービス終了のお知らせ ⇒異性愛というありふれたヘンタイ(再追記アリ - 地下生活者の手遊び 「大島渚テーゼ」と私が勝手に呼び習わしている観念があって。「男たちは愛し合う代わりに殺し合わなければならない」という。そして、愛し合う代わりに殺し合わなければならない男たちは、殺し合う代わりに社会を作った。現行の社会を。その秩序ある社会を、ホモソーシャルと言う。あるいは国家を。それは、男たちの都合により、愛し合うことと殺し合うことを忌避することによって成り立っている。その「都合」を、オブセッションともポスト近代な現在では言う。 別に大島監督がそういうことを説いていたわけではない。ただ「男たちは愛し合う代わりに殺し合わなければならない」ことを――その代替物とし

    御法度を生み出すもの - 地を這う難破船
    crowserpent
    crowserpent 2009/11/26
    地下猫氏の韜晦が過ぎて意味不明だったけど、そういう話だったのね。「愛し合う代わりに殺し合う」構造を再び「愛」へと読み替えるやおいの構造を併せて考察すると面白いかも。
  • 佐藤雅樹「少女マンガとホモフォビア」 - に し へ ゆ く 〜Orientation to Occident

    id:nodadaさんが、1990年代前半に起きた「やおい論争」について触れたマンガ評論家藤由香里さんのエッセイをレビューしておられる。 腐男子じゃないけど、ゲイじゃないーコラム『HONEYの蜜×蜜日記』、藤由香里さんのやおい論争。 藤さんはね、まずはこう言うのです。このやおい論争における、表象暴力系の問題について「自分の好きな表現が一定の人を傷つけてしまう可能性があることを表現者は自覚し、そして自分の表現に責任を持ちつづけるしかない(ただし、気にしすぎると表現が出来なくなるのも事実だ)」と仰ってるんです。それはその通りだなと思います。そして、次には「ただ一ついえることは、生身の人間に自分のファンタジーを押し付けてはいけないということ!」と議論を展開していくんですね。 (中略) さて、藤さんはこの議論では「何がファンタジーで何がリアルなのか」ということをゲンミツに触れていませんが、

    佐藤雅樹「少女マンガとホモフォビア」 - に し へ ゆ く 〜Orientation to Occident
    crowserpent
    crowserpent 2008/02/05
    「ホモフォビア」の背後にあるのは「異性愛規範」である。/「既成の作品を、糾弾ではなく、『批評』していくこと」/関連:http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20060510
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